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2003年08月22日

サーフィン クオリアの波に乗る

波が目の前にあっても、それに乗れるとは限らない。なぞなぞではない、サーフィン中のごくあたりまえの瞬間だ。逆はというと、波が勝手に自分のところにやってくる、状態。
”こっちの水は甘いぞ”では無いのだが、どうもさっきから50メートル右の場所にばかり、いい波が来ているような気がする。で、そこに移動すると、元いた場所にいい波が入っている。もちろん取り逃がす。この”調子悪い状態”にはまり込むと、永遠1時間以上もカスのような波しか乗れないことになる。
逆に”調子いい”時は、どんなにサーファーで海が込んでいようとも、きれいな三角波の波頭が、腕を広げて抱きついてくるように、最も深いテイクオフ・ポジションへと、いざなってくれるのだ。つづけて何本も、ライディングとパドルアウトで腕が上がらなくなるぐらい。
水を伝わることで実体化する力学的・波動を、エポキシ樹脂から削り出したボードで乗りこなす。サーフィンは条件反射のスポーツだ。ひとつとして同じ波は存在しない。そして”乗る”前に立ちふさがる、波を”とる”というハードル。海底の砂丘に乗り上げた波動が、水の壁を切り立たせるPoint Breakを察知できるのは、見えないはずの海底の地形が見え、わからないはずの波の周期が感じられるときなのだ。
波が入ってくる周期(セットが来る、という)があるように、乗る人間にも2つの状態が、同じ日、同じ場所でのサーフィンで交互に訪れる。そして”調子悪い”原因は、明らかに「余計なことを考えている」こと。プカプカ海に浮かびながら、仕事やら、昔のことやら、考えが浮かぶと、Point Breakも波間に漂って消えてしまう。そんな状態で、波を見ようとしても、はずすんだな、これが。そんなときには、片腕を水につけてみる。体液と海水の浸透圧を皮膚で感じてみる。こんな単純なスイッチで、再び調子がよくなったりするから不思議なもの。

などと書いてみたのは、茂木健一郎さんクオリア・マニュフェストを読んでのこと。”多くを知りつつ、それを忘れて観ることを志向する心理的状態には、どこか植物的なところがある”など、知覚的に共感できるロジック?が新鮮でした。クオリア日記を日々更新されていて、こちらも面白いです。ブログで書いてくれたらBrogllogingに登録できるのに。


Posted by jkanekomt at 2003年08月22日 19:32 | trackBack



Comments

”多くを知りつつ、それを忘れて観ることを志向する心理的状態には、どこか植物的なところがある”でふとある文章を思い出して、引っ張り出してみました。
(まさに「生涯に一度も通らなかっただろう概念空間の場所を通る。これが、文字というメディアを通して先人と対話することの悦びである。」)
藤幡正樹さんが「先端芸術宣言」(岩波書店)で先端芸術についての序文で以下のような言葉を書いている。
先端とは何か?先端とは、時間概念にしばられた新旧という概念でもなく、運動概念から見えてくる前後という概念でもなく、重力概念から感じられる上下という概念でもない。先端性とは、日常の中にごく普通にあり、あらゆるところに偏在しているのだが、関係性の中で相対化されない限り立ち現れてこないもの、という概念でとらえてみる必要がある。言い換えると、先端とは、それが内包しているなにものかの「縁」のことだ。先端と呼ばれる辺境では、内部からの圧力から逃れようとする力が縁に集まり、その外側への好奇心をめいっぱい振りまいている。縁がかろうじて自己の輪郭を規定しているわけで、ふちの外側の見えない闇に向かって、まるで根茎が触手を伸ばすように行ったり戻ったりする部分がある、それを先端と呼ぶわけだ。先端は、先を行く(advanced)、縁を切り取る(cutting edge)、縁へ導く(leading edge)などの言葉で表せるけれど、先端とは何か?ということを考えることは(この本のテーマなので)、「生きること」「創造すること」と深い関係がある問題なのだ。というような事を書いている。
前置きがすごく長くなったけれど、この「先端」について考えるとき、人間は運動感覚とか時間感覚、重力感覚の動物的制約を受けている。だから、寿命を伸ばすために水を求めて、光を求めて先端を延ばすことを単純に思う植物の内面からの思考に、人間の思考は追いつけない。というようなくだりがありました。確か。
ある事柄について、思いつく限りの方向で考えに考えていた最近。多くを知りすぎて、最もシンプルな生きるということへの植物的姿勢を持っていない、とふと思わせるクオリアの「波」と藤幡さんの文章でした。

それにしても、無垢に見ているつもりでもそうでもない、という言葉がありましたが、まさにそう。「美しい花がある。花の美しさという様なものは無い」ってなぞなぞみたいだけれど、どこかで、美とか様式とかを考えていることがあるから、はぁ、と感嘆する。ただシンプルにうなずいてしまう、ということはそう多くないかもしれない、と思いました。「見る」だけではなく「食す」ときも同じことが言えるのでは?おいしい、と単純に思わず薀蓄が語られることは時として見られることでしょう?そう考えると、「うーむ」「うんうん」とうなずけることは幸せな体験なのですねー。(簡単なまとめをしてみました)

Posted by: Lenasaka at 2003年08月23日 03:08

>人間は運動感覚とか時間感覚、重力感覚の動物的制約を受けている。

同時に動物的制約を越えたいという欲求があるのも、人間ならではなのかも。飛びたい、海の先、地球の外に行きたい、など等。それは未知への好奇心という一般的な側面の他に、Over the Edgeにおける極限状況で、これまでの自分の感覚をあてにできない、したがって植物的に環境に適応せざるを得ない状態が、中枢神経を強烈に刺激する。光合成に憧れて、フロンティアに光をみるのでしょうか。

Posted by: Jun at 2003年08月26日 17:09

ぜんぜん関係ありませんが、”主人公が光に打たれる”というシーンで一番印象に残っているのは十戒でもベン・ハーでもなく、ブルースブラザーズです。

While standing at the entrance to the Triple Rock church watching the service with much dancing and Hallelujah choruses, a heavenly light shines down on Jake and he has an epiphany
Jake Blues: The band...the band...
Reverend Cleophus James: DO YOU SEE THE LIGHT?!
http://tomsquotes.amhosting.net/movies/blues/james.jpg
Jake Blues: THE BAND!!!
Reverend Cleophus James: DO YOU SEE THE LIGHT?!!
http://tomsquotes.amhosting.net/movies/blues/light1.jpg
Elwood Blues: What light?!
Reverend Cleophus James: DO YOU SEEEE THE LIGHT?!
http://tomsquotes.amhosting.net/movies/blues/light2.jpg
Jake Blues: YES!! YES!! JESUS H. TAP-DANCING CHRIST...I HAVE SEEN THE LIGHT!!!

Posted by: Jun at 2003年08月26日 17:34
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