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知識が流通する、ビジネスになる、とはどういうことなのか?理想と現実?ちょうど別の観点から考察している幾つかの記事があったのでメモ。
今まで知識は書籍、CD、ソフトウェアCD-Romなど物理的な媒体にパッケージ化された工業製品として販売されるだけだったが、インターネットの普及によってこのような「工業製品のしもべ」から脱するための環境が整ってきた。さらには、知識を金銭に換算するのではなく、純粋な知識だけの流通において”価値”を生み出せるようになるのではないか、という観点なのが以下の記事。
しかし筆者がもう一方で注目しているのは個人個人の知識を価値として貨幣経済とリンクさせる流通モデルである。例えばカナダの「blogging network」というブログでは一律徴収価値分配モデルを実践している。このブログでは全員の利用者から毎月6ドル近くを徴収しているが,その半分の3ドルはその人が見ていた他のブロガーに読んだ量に応じて分配されることになる。このモデルでは価値のあるブロガーの人により多く収入がもたらされる仕組みになっている。
(中略)
今後,知識が価値を持つ知識社会が来るのであれば,お金に変換するのではなく,知識だけでもどんどん流通するようになる中で,金融業のように知識仲介事業者は現在の銀行のような役割を果たすのではないだろうか。例えばこれまで情報は消費されるだけのようなものであったのが,自分がたくさんの価値のある情報を積極的に生み出して,預けておくと,それが社会の付加価値になり,利子となって自分の財産に変わることもあるのではないだろうか。
(中略)
つまり現在のブログが情報資産を預ける銀行業のような存在になる日も来るかも知れないし,我々は自分の情報を資産「インフォメーションアセット」として意識できるようになるかも知れない。
一方で、今の世の中、例えば”レンタルビデオ店”というような(実社会では)ありふれたビジネスを、インターネットで始めようとすると、ショッピングバスケット、MPEG4等々、必要な機能は特許が取得されているため、特許の調査費用、ライセンス料の支払い(特許取得者はライセンス供与を拒むこともできる)によって、実際にビジネスを始めるのは困難な状況になっているのではないか、という記事。
Keeping Out of the Patent Briarpatch
さらにはSCO問題についても切れ味鋭いLessig Blogでは、一部の所有権者の権利を最大化するだけの旧来の市場至上主義に対して、一定の領域を非-排他的な共有地[コモンズ]として開放するほうが、市場全体としてはうまく機能するはずなのに、既得権益者のロビー活動によって作られる”規制”によって、それが阻まれかねないという指摘。
“コモンズ”の側は、ひとつの市場――あるいはデバイスの市場――だけで充分だと信じている。つまり、企業が帯域のよりよい活用の仕方で競争するなら、あとは市場がうまくやってくれるだろうという考え方だ。そうしたデバイスの驚くほどの浸透と、帯域の多大な活用を実現できる。(例えばwi-fi)。
“市場”の側は、帯域を活用するデバイスの市場だけでは不十分だと信じている。デバイスの市場に加えて、帯域のそのものの市場――特定帯域の所有者が、他者が同意なくその帯域を利用することを禁止する権利を持つシステム――もまた必要だという考えだ。かれらの信じるところによれば、帯域を財産権として所有可能なものにして初めて、それをコモンズとして扱う場合よりも多くの繁栄を手に入れることができる。(例えば3G[第三世代移動体通信ネットワーク])。
(中略)
だが、あなた自身の考えを試してもらいたい:新聞に対する市場を考えてみよう。仕組みとしては、「新聞を出版する権利」に対する財産権というものを想像することができる。この権利は政府によってオークションにかけられる。こうなれば、新聞を発行しようとする人々は新聞同士の市場だけではなく、新聞を出版する権利の市場でも競争しなければならなくなる。このような“市場”がよりよい効率をもたらすという理屈は理解できるが、それが正しいとは思えない。わたしはひとつの市場――新聞同士が競う市場――だけで充分と考える。その上にもうひとつの市場を付け加えて得られるものは何もない。
それは話が別だ、というだろうか? 新聞を発行する“財産権”は憲法に違反するんじゃないかと。まさにその通り――そして帯域規制についても同様だ。Benklerとわたしが5年前に論じていたように。
藤本氏の記事、レッシング氏の記事、いずれにおいても感じるのは、「最大化されるべき”価値”とは何なのか?」ということへの問題提起です。権利者の受け取る金銭を最大化するのと、イノベーションの結果としてもたらされる社会、環境へのメリットを最大化するのでは、そもそもの目的が異なるので、”フェアユース”の範囲も自ずと変わらざるを得ないのでしょう。
本来はイノベーションを促進する目的で作られた制度が、既得権益者の既得権保護に濫用される。あるいは複雑化する制度によってもたらされる、情報の非対称性につけこんだ巨額の中間マージン搾取(SCOの顧問弁護士のような)。このような問題は、単なる制度疲弊だけではなく、もっと根深い人間の欲望=所有欲に根ざしているような気もします。個人的にも物欲は強いほうなので(笑)、それ自体を否定するつもりはまったくないのですが、経済というシステムのなかで所有欲の対象があまりに限定されすぎではないか?という気はします。
マイホーム、ITバブル、金持ち父さん、この辺りは欲求=金!という分かりやすさで、逆にそれはそれでアリだよね、と思えるのですが、ブランド信仰、ゆとり教育、スローライフ、この辺は記号化されたキーワードの背後に得体の知れない悪意が隠れているような気がして、テレビのコメンテーターが、さもありげに口にしているのを見ると鬱陶しい気分になるのはなぜなのでしょうか。
話を知識流通と所有権に戻して、前向きにこの問題を捉えると、インターネットによって情報流通の量、スピード、範囲が飛躍的に拡大しつつある現在、既存の価値観(何をもってして”価値”とするか)が、イノベーションによるチャレンジを受けているのかなとも思います。自己増殖するイノベーションの進化のスピードに対して、人間が欲求として感じる所有欲の進化が追いついていかない。ある組織が新しいイノベーションに対してとる行動を見ると、その組織が所有する何を守ろうとしているのかが見えてくる。逆に社会的なイノベーションに積極的に貢献する組織は、巨大な広告費をかけなくても、高い社会的認知を獲得できるわけです。”フェアユース”の線引きも、そのような社会的認知に基づいて規定されるよう期待したいところです。
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特許要件 --どのような発明が特許されるか-- (三枝国際特許事務所)