talk dictionaryの、佐藤雅彦さん×茂木健一郎さんの回がとても面白い。最初は文章を読んでいたのですが、Podcastingを音声で聞くと、まったく印象が違う。何が違うかというと、2人(3人?)が話に熱中していく雰囲気、盛り上がっていく集中力、ちょっとしたゾーンに入っていく感じがよくわかるのです。「熱中しているとはどういうことかというと、自分が無い状態。」とは、佐藤さんの言葉だけれど、話が集中するにつれて、あきらかに3人の壁が消えて、言葉だけが行き交うようになる。
リズムに乗った会話のなかに、それぞれの人が言葉の音を投げ込んでいく感じ。「猫が魚を捕れないような難しい状態をアルニケという」と、文字になっていると意味不明だけれど、ある会話の文脈では不思議な造語が燃料になる。
話の内容も、熱中する「ステュディオスな状態」とは何か?を巡り刺激的です。それはPodcastingを楽しみに聞いていただくとして、こういう会話のライブ感がコピーされて広がっていく、ということにも興味がわいてきます。
もちろん、Podcastingを聞いているだけでは、会話に参加することはできない。自分からボールを投げこむことはできないのですが、言葉を受けるだけでも、確実に感じるものはある。例えるなら、キャッチャーの後ろに立って、メジャーリーガーの150キロの投球をみる感じ。バッターボックスには立てないけれど、直球の迫力とか、変化球の凄さがよくわかる。
ところで、熱中するということの面白い点は、プロもアマチュアも関係ないところです。「プロじゃなければ、何かに熱中できない」ということはあり得ない。ただし、プロの方が熱中する時間が長いのは事実。しかしここでプロってなに?という疑問がわいてくる。
写真のプロはいる。文章を書くプロもいる。会話のプロはいるのか?いや、プロが会話すると面白いのか?文章がうまいからプロになる? ひとつの客観的な指標としては、どれだけの手間と時間をつぎ込んでいるのか。その結果として、持ち玉や、守備範囲が広がってくる。あとはプレイヤーとして、どのリーグに参加するかという違いでしかないのだろうか。
ただ、まだリーグを超えて参加したり、あるいは新しいリーグをつくること自体はとても大変になっている。文章を書くことも、写真を撮ることも、本来は日常のありふれた行動の延長線上にあるはずなのに、熱中できる環境としての現在のリーグは、なぜか違うシステムのようにみえている。
でも、ステュディオスなPodcastingを聞いて、こうした文章を書けるということは、何かいままでのシステムを侵害するような楽しさがある気がします。同じテーマについて、思いついたところを書いてトラックバックするぐらいなら、普通にできる世の中になってきてるんです。
Podcastingの別の回で、「ダライラマに実際にあったときに、この人についていきたい、という純粋な衝動すら感じた」と坂本教授が話していました。実際のところ、現実世界でついていくとなると、色々とシステム的な制約を受けるのでしょう。しかし共感やインスピレーションといったものは、純度の高い、非常に細かい粒子なので、人間のつくったシステムぐらい、やすやすと透過する。
そいういうものを増幅する手段とかツールを、人間は常に求めつづけているような気もします。メディアとかコミュニケーションとか、そういうくくりだけではなくて、インターネットが「熱中する会話」みたいなものを伝える場になったら面白いな〜と思います。とてもザックリしているのですが。
しかし現実の場は、もちろん重要!とうことで、アップルストアのイベント(茂木健一郎 クオリア日記: たらふく)をミスったのはつねづね残念だ。自分のアップルストアでの講演も、茂木健一郎さんの「脳整理法」から沢山の着想点をいただいています。
「脳」整理法 p.83
最近になって時代の変化が速くなっているということは、それだけ、「創造的」なイベントによって、状況が変化するケースが多くなってきたということを意味します。創造的イベントは、社会の中に新たな偶有性をもたらします。こうして、人間の脳の創造性を通して、偶有性が正のフィードバックを通して強化されていくのが現代なのです。
偶有性との行き交いの中、脳の中で体験が徐々に整理されていくプロセスは、新しいものが生み出されるプロセスとほとんど同義です。脳は、創造的であるために、さまざまな偶有性をもたらしてくれる広い世界との行き交いを必要とします。人間の脳の創造性とは、偶有的な世界に対する、一つの適応であるとさえいえるのです。
生きていく上で、いかに偶有性を担保するかということは大切な命題です。体験の中の偶有性に生き生きと学び、孔子や鴨長明が直感的にとらえていたようなかたちで、あるいは「鯉の滝上り」というメタファーにふさわしいかたちで変化し続けられるような人は、いつまでも若さを保ち、創造的であり続けることができます。偶有性に目を閉ざすとき、精神は老いるのです。
「脳」整理法 p. 116
セレンディピティは、従来の「正解を学ぶ」という学習のイメージを超えた、新しい学習のモデルを提示してくれる点でも、注目されます。
学習とは、教室の中で答えの決まったドリルをやることだけではありません。先に見たように、脳の神経細胞の結びつきは、つねに変化し続けています。脳は、いわばつねに学習し続けているのであり、その中で、「鯉」がやがて「竜」になるような変化が訪れることが実際にあるのです。
学習の機会は、日常生活の思わぬ局面で訪れます。街を歩いていて、ふと耳にした音楽や、集会で偶然出会った人の話。新聞でたまたま目にした記事。家の近所を散歩していて、気づいたこと。
日常の行為をくり返す中で、偶然出会う体験の中に隠れている偶有性を私たちの脳が整理する中で、思わぬ発見がある。その発見が「私」を変えていき、ときには自分自身の人生を変える劇的な変化をもたらす。そのような、人生における絶えざる学習のプロセスの中に埋め込まれているのが、セレンディピティなのです。
今日のように急速に変化する時代には、ある一定の知識を身につけておけばそれで一生十分ということはありえません。むしろ、自分の脳をオープンにしておいて、いつでも生きるうえで必要な何かが入ってくるように、スペースを空けておく必要があります。そして、その必要な何かとの出会いがあったら、それに気づき、受容する必要があります。そのようなプロセスは、まさにセレンディピティそのものです。

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コメント
僕が10年ほど前に、SMEなどの内定を蹴って某パソ通の会社に入社したわけは、そこに熱中があったからでした。「これは何が何だか判らない。ビジネスになるとかも当然判らない。けど大好き。これについて話していると瞳孔が開く」という人たちが大量にいる、とても普通のスーツ着た社会人には一生なれそうにない人たちが集まっていたので、そこが面白そうだと思ったんですね。
今、ITは、なんか普通の人が増えて、面白くないですね。僕が英語あんまりわかんないので、最近のアメリカの新「小さな」サービス関係をたくさん見ていると、アメリカにはまだそういう熱狂があるのか、と、少しうらやましいです。
ちなみに、日本には、2年前までは、2足歩行ロボットについて、そういう熱狂がありましたね。今も一部にあるのか?ロボワンとか。
誰か熱狂が渦巻いているところを教えてください。
つぎつぎと生まれる便利なネットのツールに可能性を感じつつ、その先には何があるのかな?とも思います。
オープンソースなどを活用して、少ない人数でやれることは広がってきた。無料のツールやAPIもある。何かやれそうだけど、イマイチ思いつかない。結構、そんな雰囲気もあるような気がするんです。成熟してきたところで、次の一手を探しているような。
なんとなくですが、全体としてのIT業界は、安定成長のフェーズに入ってきているような気が。そんな環境だからこそ、すごく個人的なモチベーションでつくるものが、案外とブレイクスルーになったりしないかな、とは期待してるのですが。自分が生きたいように生きるために、何かを作る、みたいな。