友達の読み終わったダ・ヴィンチ・コードをもらって、なかなか遅ればせながらに読んだ。なんだか小説自体が久しぶりで、一気に読み進む感覚を思い出しながらページをめくり終わる。
日常と言うほどにはキリスト教に馴染みはないけれど、誰もが知っている事物に残された痕跡をあつめることで、慣れ親しんだ世界観に目眩(めまい)をおこさせるのは、なるほど確かに、これだけ多くの人に読まれる力が感じられる。
書かれている歴史を考察する知識はまったくないけれど、訪れたことのあるルーブルやロンドンの光景、あるいは「薔薇の名前」のイメージなど、記憶の断片から想起される、自分の中の過去の遺産がそのままミステリーに転換する。
記憶が積み上がるほど、納得しやすいストーリーへと導いてくれる信仰には、たとえそれが迷信といわれても、抗しがたい魅力がある。小説の中で、この言葉が誰によって述べられたのかは、とても興味深い。
「いまわれわれは大いなる変化の時代にいる。千年紀が少し前に終末を迎え、それとともに、占星術で言う二千年に及ぶ魚座の時代が幕を閉じた。魚はイエスの記号でもある。占星術にくわしい象徴学者ならだれでも知っているが、魚座の理念では、人間は自分で物を考えることができず、より高次の存在から行動の指針を教わる必要があるとされている。だからこそ、この期間は熱心な宗教の時代だった。ところが、いまやわれわれは水瓶座の時代に踏み込んだのであり、その理念は、人は真理を学び、おのれの力で考えることができるというものだ。いわばイデオロギー上の重大な変革で、いままさにそれが起こっている」
およそ、世の中のありとあらゆる表現には罠が仕掛けられている。小説のストーリに、たぶらかされるのを楽しみつつも、コードに惑わされずいるのは難しい。真理はつねに、ほのめかされる、とまったく違う文章がつながってみえるのが、この小説の力なのかもしれない。


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コメント
小説も読んで、先週末映画を見に行きました。私は小学校と中学校がカトリック教の学校だったので、カトリックの教えを信者ほどではないですけど、みっちりと勉強しました。Da Vinci Codeで記されている「カトリック教の真実」ですが、小説だと知っていながら自分の中で信じてみたい気持ちが大きかったです。神と悪魔に対する恐怖を(昔)信じさせて信教に実は完全に作られているものである決定的な証拠が欲しいために。
子供の頃は、何かが絶対的な存在として教えられるものなのかもしれませんが、自分の場合は「山の神様」とか「お天道様(太陽)」とか、もっと雑多な体系だっていないものだった気もしますね。宗教が日常的ではない分、どこまでリアリティを感じていいものか、非常に距離がとりづらい感じがしました。でも、それはキリスト教の知識があっても、逆に同じように働くわけなんですね。