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January 21, 2005
文脈のなかとそと、自己を認識することについて
しばらく前に自分の立ち位置があいまいになり、足元がふわふわし続けた時期があった。ここに生きる自分とは何者か、ということを毎日歩いたり、書いたり、読んだり自問しつづけた時期だったが、自分のことを一人で考えても見えるものに限界があり、社会のなかで自分のことがわかるのだろうと感じたのは、美術館の仕事にうつってからだった。新たな人、環境のなかで新たな自分をみつけ、一歩進んだ気がしたことを覚えている。そういえば、自分を知ることは自分を見つめることだと思っていた時期に読んだ文にハッとさせられたことを思い出した。ミヒャエル・エンデ氏が子安美知子氏との対談で、自己を見ようとして迷宮にはいりこむことについて語っている言葉だ。
ところで、茂木健一郎氏のクオリア日記「文脈の海に飛び込む勇気」には、自分探しというメタファーに肯定的でないとする氏が、時として息苦しくもある文脈(日常)を脱いで、たとえば砂漠や海辺を歩いていると裸の自分が見えるときがあり「自分探しということは文脈を脱ぐことかと思えば納得がいく。」と書いている。歩いているときに考える「「今」という時刻の特別性、「私」という存在の絶対性、他者との絶対的隔絶といった問題は、明らかに重要であるが、社会的文脈に容易に結びつけようもない」もので極めてプライベートなものだが、文脈での成功に心動かされなくなったのは、文脈にとどまることが私秘性から遠ざかるベクトルと考えたからではないかと。私秘的なものへの比重の高い環境に育ったため、また、私秘性が極めて希薄な生活を送ったために自分が消えそうになるこわさを経験したため、文脈と私秘的なるもののバランスの難しさをいま、感じている。文脈の比重も大切にしないと。
そのようななか、文脈の中と外を両立させる人たちがいることも事実で、そのような人と会うと心に勇気がわく。先日、ヴィパッサナーで出会ったマサ子さんは、朝晩の瞑想をかかさない。一人で時間を過ごすことが多い。環境を考えたかなりのグリーン・コンシューマーで、環境問題についての講演をしながら生活している。完全に自分の世界を持ち、ハッピーでピースフルな彼女が社会的な活動を行うときの集中力とエネルギーはすごいものがあるのだ。ヴィパッサナーやオーガニック、Earth Friendly、マクロビ、ヨガ、絵を描く、早寝早起き、一人で歩く、ぼーとするなんかは私にとっての私秘的なものを構築する要素の一部だけれど、それを文脈とバランスすることは簡単じゃない。スピリチュアルでマテリアルな生活を送っているマサ子さんは、文脈と私秘性のバランスが取れているようにすごく感じる。茂木さんは、その二つのバランスをとっている人たちへの憧れについて書いているけれど、それは、つまりそれだけ難しいということを私たちもわかっているからなのだろう。そして、どちらも価値のあることだと感じる人たちが増えてきたこともあらわすのだろう。(私秘的なものへの価値は、どうしても今まで低く見られていたと思うから)
茂木さんの最後の一文がとても好きだ。
結局、バランスを保ってハッピーに生きることなんだ!と書いたらとっても雑なまとめになってしまう。でも、青春(=社会的文脈と結びつかない根本的問題が生活の大部分を占める時期)を一歩踏み出したこれからは、エンデのいうように外とつながること、そして、茂木氏のいうように外につながる勇気をもつために中とつながることなのではないかと思う。
(R.シュタイナー「箴言集」)
投稿者 asaka : January 21, 2005 9:11 PM
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