Goodpic.com
2003年11月05日

見えるものと観えないもの―横尾忠則対話録

「昨日の夜、こんな夢をみてね」と始まる会話、独創的?あるいは支離滅裂の夢の話は誰としても面白いもの。「こんな夢、あんな夢を見た」「空を飛ぶ夢、こんな時に見がちだよね」というように色々とバラエティーを並べることはできるものの、ではその”夢”そのものってなんなのだろう?という話は意外と難しい。フロイトやユングでは、それはやはり哲学の話だろう。もっと感覚的に、パーソナルな体験として夢を語るとどうなるのか?
夜明けの光には人を目覚めさせる力がある。日が昇る前の薄明かりは、昼の日差しと違って、朝の空気の中に染み透るようにまぶたに届く。おそらく、そんな光の粒がまぶたを透り、視神経を刺激することで、まどろみを夢に変えるのかもしれない。
量子論によれば光は、粒でもあり波でもあるそうだ。光に照らされる世界は霧のようなものであり、光の粒、光子があたって人が観察するときにだけ、その姿が定まるそうだ。漂う光の粒の数だけ世界が存在する、パラレルワールドをめぐる横尾忠則さんと11人のアーティストの対話集「見えるものと観えないもの」。対話は淀川長治さん、生きる映写機といわれた語り口から始まる。


淀川 えらい雪が降ってるの。積もって膝まで入るの。ちょっと丘へ上がったら、そこに松があるのね。松に雪がつもっているの。松の枝に雪が積もっているの。どんどん上がって上がって上がって上がって、そこの下をくぐらなならんの。松の枝の下を。丘の上だから上がっていったの。ザクザク、ザクザク、ザクザク。その木の枝がわりに下まで下りてくるのね。その下をくぐらんならんのよ。その枝にも雪が積もっているの。ぼくがそれをくぐったら、バサーッと雪が落ちてきたの。ハッと目が醒めたの。目の前の「映画の友」という雑誌が積んであるのがね、バサーッと落ちたの。その瞬間の一秒間がそれだけの夢をつくっているの。
横尾 だからそこがすごいんですよね。たとえばバサッと落っこってきて当たった、それは結果ですよね。その結果の前に・・・。
淀川 夢になってるの。
横尾 夢というのは、もしかしたら「映画の友」が落ちるということを夢が先に知ってて、その前にそういうお話をつくらせるのか、あるいは雪の夢を見ていて、たまたま雑誌が落ちたから、そこでストーリーが突然雪が落っこったというふうに変わっちゃったのかね。
淀川 (コップを叩いて)音がパンとするでしょう。これでぱーっと十五分間ぐらいの夢になるのよ。それを感じたの。だからタイムないんだな、夢って。たとえば、夜明けに長い夢を見たというでしょう。嘘なの。朝、どかんと叩いた音がそれだけの夢をつくっているかもわからないの。

体が寝ているのに、頭は起きている。すごく視覚的なのに肉体感覚からは開放されている。夢はある意味で、映画を見る行為に近いのかもしれない。数え切れないほどの映画のカットが記憶に結びついている、そのなかから普通では気づかない映像の法則を、ことばとして教えてくれる淀川さん「タイムないんだな、夢って」という一言で、あたりまえのように”見るもの”だと思っていた夢の矛盾した本質に気づかされる。

横尾 ところで僕はある時ふっときがついたんですが、「夢」の中でいろんな他人が出てきますよね。その人物が誰だか知っていたとしても「夢」に出てくるその人物は、実は自分の性格の一部を表しているんじゃないかと思うんです。

河合 すごく徹底した言い方をしますと、「私という人間は世界と対等」なんです。つまり世界と一緒なんです。だから私が横尾さんの「夢」を見たとしたら、それは今日お会いした横尾さんでもあるし、ぼくの心の中の横尾的部分であるといってもいいと思います。だから「夢」の中に出てくる人物というのは二重の意味合いを持っているように思います。
臨死体験の中に非常に印象的な話があるのですが。死んだと思っていた人が生き返り、その生き返った人が活けてあるチューリップを見て、これは私だということがとてもよくわかるというのです。そのことがよく体験できると。―― 分かる気がしますね。普通、私たちが生きているこの世の意識では、チューリップと自分とは違うものだとしないと社会的に通用しませんが、深い意識状態では、チューリップも自分も一緒のところがあるんですね。そういう意味でのチューリップは自分の一部でもあるわけです。


似て非なるもの、という言葉があるけれど、実は「非なる、似てるもの」という範囲でしか見ているものを説明できないのかもしれない。夢の中に知っている人がでてきた時に、果たしてこの目の前の(夢の中の)人は、自分の知っているAさんなのだろうか?という疑念は、おそらく感覚的に正しい疑問なのだろう。夢の中の見たことのあるような、知らない場所。ぼんやりとしたイメージとして見えるAさん=知っているようで、知らない人。夢で見る景色と人は、いつもそのような感じだ。
逆にいうならば、いつもの会社や学校であっているから、いつもと同じ目、鼻、顔の形だから、起きているときに目の前で会う人が、Aさんだと確信が持てる。「ヘアスタイルがかわったから分からなかったよ」という会話は、意外な現実のもろさを表しているのかもしれない。

島田 普通人間の脳味噌で考えることというのは、決して単純ではないのです。単純に見える場合は、あることについて考えているとか、あるいは論理的な矛盾のないような体系を作ろうとしているかという感じだと思うんですよ。日常生活、社会生活を行ううえで、矛盾のない論理体系を作らなければ、あるいはそれを信じなければ、何かと不都合が生じるので、普通はそうしているわけです。ところが、夢になると、非常にリラックスしている状態で、そういう特定の論理体系だけじゃなくて、そういう論理体系自体を壊すような矛盾も含めて思考が進行している。それでも眠っているあいだも脳は働いている。そこで相矛盾する想念同士がぶつかり合い、その妥協案として出てくるイメージというか、非論理の論理というか、夢はそういうものに裏打ちされていると考えると納得できるのです。だから、夢を見て、すぐ起きてメモをするなりしても、覚醒中の頭悩は論理的に整合性を付けようとしてしまうので、夢の記述というのは、厳密な意味では不可能だということになると思うのです。
横尾 それはそうですね。ぼくもずっと夢日記をつけていますが、非常に難しいんですよね。といって絵で描けるかというと、光景がぼやーっとしていて形体がはっきりしていないから、リアルには描けない。知人が現れたからといって、その人物らしく描こうとするのは別の努力ですよね。技術的な自分の経験によってそれを描く、そうすると、それは正確なものではないし、そうかといって、夢そのものを写真に撮れるわけではないからね。まして文章になると、できるだけ忠実に書こうとするのですが、下手をすると表現してしまう恐れがある。島田さんなどはもちろん言語で表現していらっしゃる方だから、なおさらそこに自分の表現という問題がかかわってきますよね。

論理的で矛盾のない状態は、実は人間が意識してつくりだす、限られた状態だという指摘。寝付けない夜は目を閉じても、色々な思いつき、今日の出来事や、昔の思い出が、どこからかやってくる。去来するそういった思念を、もはや意識することも無くなるぐらいリラックスした状態でようやく”非論理の論理”に身を任せることができるようになるのだろうか。
アフリカかどこかの部族の人は自由に見たい夢を見ることができる、という話を聞いたことがあるのだけれど、その部族では子供のときに、毎朝起きたら必ずどんな夢を見たのかを家族と話すそう。そして例えば怖い夢を見たときには、「その時にどうしていたら、夢のなかの怖い状況で助かったか」というアドバイスを大人がするのだそうだ。それを毎日繰り返すことで、非論理の世界なりに、夢の中で自分が望ましいと思う行動がとれるようになってくる。大金持ちになる、とかスターになるというように”見たい夢”を見れるわけではないけれど、夢の中でパニックにならずに、自然に楽しむことができるようになるという。

荒俣 世の中の人間が考えることの中には完全に外の世界との整合性があって、間違いなく正しい認識とか原理があるんだという錯覚をおこすんですが、科学にしても哲学にしてもだんだんわかってきたことは、思考は要するに個人の非常にプライベートな営みにすぎないということです。
つまり、ある日、たまたまそう思っただけであり、それがたまたまいくつかの自然現象と合致したために科学という公式の枠内では、共通の部分が公式、定理などの形で独立したわけです。
逆に言うと一つの定理の周辺には、その発見者のプライベートな部分がたくさんあるのですが、あえて落とされているんです。
(中略)
世の中というものは面白いもので、狂気の一番すごい問題というのは、たとえば細部なら細部を、あるいは全体なら全体を、思い切ってデフォルメできる点でしょう。針小棒大というように非常に極大、極小がきくことです。
レンズでいえばすごく絞り込むし、ロングも撮れるマニュアル・カメラ。その代わり全部に焦点が合うコンパクト・カメラではない。狂気にはそういうところがあります。
コンパクト・カメラは、いろいろな対象について、そのいいところや重要なところをある程度キャンセルしつつ、全体をある程度の線で捕え、過不足がないようドングリの背比べくらいにして、つまり愚純に飼いならして、写真を撮るようなものです。つまり正常の論理ですよね。社会のいろいろな論理体系にせよ、芸術活動にせよ、大体その方向で進んでいます。
コンパクト・カメラというものがはやっていて誰でもが撮れるようになって、ほとんどの人は感じないようですが、実はこういうことは厄介なことであり、窮屈なことであったはずなんです。なぜ、窮屈さがなくなったのかはいろいろな問題がありますが、これは先ほどの正常な論理の世界と同じだろうと思います。

起きているときには、ちょっとしたパニック=自分が考えていることと、外の世界の法則とが整合性が取れない状態に、新しい発見があるのかもしれない。外の世界の法則自体が、たまたま過去の個人の思考と自然現象が合致した偶然の積み重ねにすぎない、というある意味での開き直りが、逆に自然現象に対する真摯な問いを生み出すのだろうか。
この本は、横尾忠則さんとバラエティーに富んだアーティストの対話の中で生み出された、数え切れないぐらいの思念の固まりのようなもの。ここでは結構な字数を引用したようでいて、ごくごく一部、個人的にちょっとしたパニックを与えてくれた箇所を切り出させていただいただけ。それこそUFOから背後霊にいたるまで、世界の法則のなかに組み込まれて話題となっているのです。


見えるものと観えないもの―横尾忠則対話録
ちくま文庫 横尾 忠則 (著)

目次
生の死と芸術と(淀川長治)
想いはエネルギーです(吉本ばなな)
宇宙の愛(中沢新一)
見えるものと見えないもの(栗本慎一郎)
夢は霊感の源泉(河合隼雄)
宇宙と狂気と愛と(荒俣宏)
ヴィジョンの降臨(草間弥生)
芸術家は畸人たれ(梅原猛)
想念の池にて遊ばむ(島田雅彦)
アートは異界への扉だ(天野祐吉)
芸術は真摯な遊び(黒沢明)

Posted by jkanekomt at 2003年11月05日 01:23 | trackBack



Comments
Post a comment









Remember personal info?







関連記事