Goodpic.com
2004年02月01日

生活の質を向上させる情報化時代の「欲望のエデュケーション」

20世紀に「生活の質が向上」したことは間違いない事実だ。ここでの「質」とは、食費、住宅費、こういった生活のための出費であったとしても、食べたいものを食べ、住みたいところに住むことができる、消費の質が変わったいえるのではないだろうか。20世紀の分業化と工業化によって、消費の選択肢の幅が増えたが、21世紀の情報化は、消費の質をさらに向上させるのかもしれない。棚に並んだ商品の中からただ選ぶというだけでなく、自分のライフスタイルを構築するための消費、という意味合いがますます強まっているように感じる。

20世紀に、消費の選択の幅は増えたものの「あれが欲しい」といった消費を刺激する情報は、テレビ広告や雑誌の記事などの、限られたメディアを通じてしか入手できなかった。ヒット商品は誰もが手に入れたいモノであり、皆、同じようなモノに物欲を掻き立てられていた。しかしながら「デザインのデザイン」で原氏は言う。そろそろ、その欲望自体を多様化する時代ではないかと。
既存のメディアの限られた広告スペースでは、おのずと掲載する情報の量も限られてくる。効率的なマーケティングのために、例えば住宅購入のような大きな消費であっても、「2LDKで駐車場付き、ひと間は和室」というような極めて限定された商品紹介にならざるを得ない。そしてそのような限定された情報がいつのまにか独り歩きして「リファレンス効果」を生み、なぜその家を買うのか?という欲望に関しても、非常に限られた価値観でしか判断をしなくなる。しかもマス広告は、その伝播力だけは強力なので、日本津々浦々、画一的で単純化された欲望が、地域ごとの文化を無視して国民の望むものになってしまったわけだ。

本来は、ものと人間の関係はもっと豊なものだろう。日常に埋め込まれたデザインは、単に便利な道具というだけでなく、新しい感覚を刺激したり、あるいはその土地に根ざした文化を気づかせるものであったりする。ものが人に与える影響を再発見して、独創的なデザインを提示し、それを欲しいと思う人間の欲望自体も進化させていく、それが原氏の提案する「欲望のエデュケーション」である。
個人的に思うのは「今、このライフスタイルが新しい」みたいな流行は、もう人為的に作り出せないんじゃないかということ。インターネットが普及して、ブログを書く人が増え、ライフスタイルを共有する人がゆるやかにつなっていくと、自然と価値観がシェアされるようになる。そこでのライフスタイルは、メディアの中ではなく実際の生活に根ざすものになるだろうから、当然ながら多様にならざるを得ないだろう。

建築物の構造を「スケルトン」と呼び、内側の生活空間を「インフィル」と呼ぶ。このインフィルを自在に編集する能力が啓発されていくとするならば、日本の住空間にも期待が持てる。この生活の基盤である住空間に対する意識水準の高まりは、おそらくはあらゆるマーケティングのベースとなる生活者の意識レベルを活性化させていくのではないか。そういうところから、独自の生活文化が生み出せるかもしれない。(「デザインのデザイン」P142)

内側の生活空間「インフィル」を自分らしく編集するための、住空間にたいする意識、知識というものは「インフォフィル(Info-fill)」と呼べるかもしれない。そしてそれは「情報発信」されるものではなく、コミュニケーションとしてシェアされるものであるならば、原氏の”たたずまい”についての言及とも非常にしっくり重なるような気がする。

未来のビジョンに関与する立場にある人は「にぎわい」を計画するという発想をそろそろやめた方がいい。「町おこし」などという言葉がかつて言い交わされたことがあるがそういうことで「おこされた」町は無惨である。町はおこされておきるものではない。その魅力はひとえにそのたたずまいである。おこすのではなく、むしろ静けさと成熟に本気で向き合い、それが成就した後にも「情報発信」などしないで、それを森の奥や湯気の向こうにひっそりと置いておけばいい。優れたものは必ず発見される。「たたずまい」とはそのような力であり、それがコミュニケーションの大きな資源となるはずである。(P-174 たたずまいは吸引力を生む資源である)

日常におけるデザインと、「欲望のエデュケーション」について

デザインとはなにか P-24

見慣れたものを未知なるもとして再発見できる感性も同じく創造性である。既に手にしていながらその価値に気づかないでいる膨大な文化の蓄積とともに僕らは生きている。それらを未使用の資源として活用できる能力は、無から有を生み出すのと同様に創造的である。僕らの足下には巨大な鉱脈が手つかずのまま埋もれている。整数に対する少数のように、ものの見方は無限にあり、そのほとんどはまだ発見されていない。それらを目覚めさせ活性させることが「認識を肥やす」ことであり、ものと人間の関係を豊かにすることに繋がる。形や素材の斬新さで驚かせるのではなく、平凡に見える生活の隙間からしなやかで驚くべき発想を次々に取り出す独創性こそデザインである。モダニズムの遺産を受け継ぎ、新たな世紀を担っていくデザイナーたちは、そういう部分に徐々に意識を通わせはじめているのである。

欲望のエデュケーション P-138

日本人は近代的な住居に対して理想的なモデルを与えられないまま暮らしてきた。明治に西洋を取り入れたが、住居は洋服のようには簡単にいかない。庶民レベルでは特にそうだ。和室と洋室をうまく融合させる方法すら満足に見つけることができないで、未解決のまま今日までやってきた。庶民が住居空間について学習する教材は、不動産業者が新聞に折り込むチラシである。2DKとか3LDKなどという間取りを眺めては、ふた部屋+ダイニングキッチン、あるいは3部屋+リビングダイニングと学習する。だからマーケティングをやっても「2LDKで駐車場付き、ひと間は和室」などというモデルが導かれたりするのである。そういう不動産チラシが「リファレンス効果」を生み、欲望はいびつな形を与えられたまま一般化していくのである。
(中略)
ある住宅のパンフレットに、広さが同じで価格差のある家がある。高い家の玄関の扉はデコラティブな装飾が施されており、安いほうはシンプルである。高いほうの居間の電灯はシャンデリアを模したつくりで安いほうは簡素である。簡素なほうがむしろ美しいが値段はデコラティブな方が高い。なぜそういうことになるのかをその住宅販売会社に聞くと、マーケティングの結果、そういう答えがでるのだという。つまりお客から「求められている」というのだ。同じようなスタイルの家で、ディテイルの差異で松竹梅の差をつけておくと、予算をたくさん持っている顧客は高いほうを選択するのだそうだ。これはネガティブな方向に向いた「負の欲望のエデュケーション」の一例である。こういうマーケティングをくり返せばくり返すほど、日本の家、そしてその集積としての街はその水準を下げていくだろう。生活習慣が違うので、「家」を海外の市場に輸出する企業はないだろうが、万が一やったとしても人気がでることはない。
おそらくはこのような一般的な住空間の供給事情がエデュケーショナルな効果を生んで、様々な生活用品に対する欲望の基盤形成に影響を与えているだろう。
(中略)
私見だが、日本の住空間に関しては「土地付き一戸建て住宅」の購入を目標とする習性をそろそろ切り替えたほうがいい。自由に売却できず、そこに住まなくてはいけないのであればその土地を自分の資産であろうとなかろうと関係ない。むしろ空間そのものの質にもう少し目を開いた方がいい。そのためには住空間を生活に合わせて「編集」するという発想を持つことが合理的であろう。基本的には床、壁、天井、キッチン、バス、トイレ、通信インフラ、収納、ドア、建築金物、家具、照明、そして様々な生活雑貨で、生活空間は編集できる。そこに土地は入らなくていい。特に都市部ではそうだ。

関連記事
デザインのデザイン 感覚の発見とモノづくり
自然と融合するシックなハイテクノロジーのデザイン 伊藤若冲と高木春山

Posted by jkanekomt at 2004年02月01日 01:25 | trackBack



Comments
Post a comment









Remember personal info?







関連記事