見えるものと観えないもの―横尾忠則対話録

「昨日の夜、こんな夢をみてね」と始まる会話、独創的?あるいは支離滅裂の夢の話は誰としても面白いもの。「こんな夢、あんな夢を見た」「空を飛ぶ夢、こんな時に見がちだよね」というように色々とバラエティーを並べることはできるものの、ではその”夢”そのものってなんなのだろう?という話は意外と難しい。フロイトやユングでは、それはやはり哲学の話だろう。もっと感覚的に、パーソナルな体験として夢を語るとどうなるのか?
夜明けの光には人を目覚めさせる力がある。日が昇る前の薄明かりは、昼の日差しと違って、朝の空気の中に染み透るようにまぶたに届く。おそらく、そんな光の粒がまぶたを透り、視神経を刺激することで、まどろみを夢に変えるのかもしれない。
量子論によれば光は、粒でもあり波でもあるそうだ。光に照らされる世界は霧のようなものであり、光の粒、光子があたって人が観察するときにだけ、その姿が定まるそうだ。漂う光の粒の数だけ世界が存在する、パラレルワールドをめぐる横尾忠則さんと11人のアーティストの対話集「見えるものと観えないもの」。対話は淀川長治さん、生きる映写機といわれた語り口から始まる。


淀川 えらい雪が降ってるの。積もって膝まで入るの。ちょっと丘へ上がったら、そこに松があるのね。松に雪がつもっているの。松の枝に雪が積もっているの。どんどん上がって上がって上がって上がって、そこの下をくぐらなならんの。松の枝の下を。丘の上だから上がっていったの。ザクザク、ザクザク、ザクザク。その木の枝がわりに下まで下りてくるのね。その下をくぐらんならんのよ。その枝にも雪が積もっているの。ぼくがそれをくぐったら、バサーッと雪が落ちてきたの。ハッと目が醒めたの。目の前の「映画の友」という雑誌が積んであるのがね、バサーッと落ちたの。その瞬間の一秒間がそれだけの夢をつくっているの。
横尾 だからそこがすごいんですよね。たとえばバサッと落っこってきて当たった、それは結果ですよね。その結果の前に・・・。
淀川 夢になってるの。
横尾 夢というのは、もしかしたら「映画の友」が落ちるということを夢が先に知ってて、その前にそういうお話をつくらせるのか、あるいは雪の夢を見ていて、たまたま雑誌が落ちたから、そこでストーリーが突然雪が落っこったというふうに変わっちゃったのかね。
淀川 (コップを叩いて)音がパンとするでしょう。これでぱーっと十五分間ぐらいの夢になるのよ。それを感じたの。だからタイムないんだな、夢って。たとえば、夜明けに長い夢を見たというでしょう。嘘なの。朝、どかんと叩いた音がそれだけの夢をつくっているかもわからないの。

体が寝ているのに、頭は起きている。すごく視覚的なのに肉体感覚からは開放されている。夢はある意味で、映画を見る行為に近いのかもしれない。数え切れないほどの映画のカットが記憶に結びついている、そのなかから普通では気づかない映像の法則を、ことばとして教えてくれる淀川さん「タイムないんだな、夢って」という一言で、あたりまえのように”見るもの”だと思っていた夢の矛盾した本質に気づかされる。

横尾 ところで僕はある時ふっときがついたんですが、「夢」の中でいろんな他人が出てきますよね。その人物が誰だか知っていたとしても「夢」に出てくるその人物は、実は自分の性格の一部を表しているんじゃないかと思うんです。

河合 すごく徹底した言い方をしますと、「私という人間は世界と対等」なんです。つまり世界と一緒なんです。だから私が横尾さんの「夢」を見たとしたら、それは今日お会いした横尾さんでもあるし、ぼくの心の中の横尾的部分であるといってもいいと思います。だから「夢」の中に出てくる人物というのは二重の意味合いを持っているように思います。
臨死体験の中に非常に印象的な話があるのですが。死んだと思っていた人が生き返り、その生き返った人が活けてあるチューリップを見て、これは私だということがとてもよくわかるというのです。そのことがよく体験できると。―― 分かる気がしますね。普通、私たちが生きているこの世の意識では、チューリップと自分とは違うものだとしないと社会的に通用しませんが、深い意識状態では、チューリップも自分も一緒のところがあるんですね。そういう意味でのチューリップは自分の一部でもあるわけです。