スティル・ライフ

本屋の棚のあいだをぶらぶら歩いて、なにげなく目に留まった一冊を手に取る。パラパラとページをめくりながら、短い文節を読み飛ばし、なんとなく気になった本をまとめてレジに運ぶ。

ちょっと空いた時間に立ち寄った本屋は、財布の紐の治外法権なので、そんな具合に買った本が、何冊も机の上に積み上げられることになる。そこからさらに時間をおいて、思いつきでピックアップした一冊の本を、通勤の電車のなかで読む。

おおむね2~3ヶ月の時差のあとで読み始めると、買ったときの印象は、すっかり頭の中から消えている。それだけに、ただ読み進めるだけで、自分の求めていた表現が偶然手に入るように感じるのは、不思議な感覚だ。

池澤夏樹の「スティル・ライフ」「ヤー・チャイカ」は、そんな日常の光景のちょっと先につながった、それでいて見たことの無い角度から眺めた風景のようだった。

決して地球に帰れないというのは、どんな気持ちだろう。機械に感情は無い。探査機は何も感じない。空を見て、今はあのあたりにいるのだろうかと目を細め、そこまでのはるかな距離を懸命に想像してみようとする人間だけが、その感情の存在を錯覚する。よく訓練され、エネルギー源を預けられ、肩をぽんと叩かれて宇宙に送り出されたその装置は、誰もいない何もないところで何を考えているのか、稀に遠方から届く主人の声をどう聞くのか。

そこには何の感情もないのだ、と文彦はまた考え、自分の思考が擬人論と機械論の壁に挟まれて、同じところを行ったり来たりしていることに気付く。しかし、何も感じないはずの遠い探査機のことを想像している人間はたくさんいる。あれのことを知っている者は時折思い出しては、あれの目が、記憶装置につながれたTVカメラが、今はどんな光景を見ているのか、次の目標とされる星に接近する時にはどれほど興奮するのか、まわりにはまったく何もないというのはどんな気持ちがするものなのか、と想像する。そういう無意味な擬人法に依らなくては、人は遠方に送った機械と自分の意識をつなぐことができない。

(「スティル・ライフ: ヤー・チャイカ」 P.152 )