フェルマーの最終定理

本に記されている内容が、今後の自分の価値観に重大な影響を及ぼすだろう。読み進めていくうちに、そんな予感が強まる。「フェルマーの最終定理」は、稀に訪れるそのような種類の本だった。

どのような分野でも、テクニックを極めた先には、頭脳で理解できる領域を超越した、純粋な感覚だけの世界が存在するのかもしれない。通常の思考のスピードではたどり着けない、そのようなゾーンにおいても、さらに厳密な論理を構成することで、唯一無二の真理を目指す。「フェルマーの最終定理」から垣間みる数学の世界は、これまでまったく存在を知らなかった、広大な思考の大陸のように思える。

そのような別世界を、何のガイドもなく訪れることは不可能だろう。本書では、著者のサイモン・シン氏によって、数学界の第一人者への綿密なインタビューが、まったくの素人にも理解できるように徹底的に再構築されている。BBCのドキュメンタリー番組が先にあり、本書はその書き下ろし、という側面もあってか、読み進めるにあたっては特に数学的な基礎知識は必要とされない。それでもなお、2000年以上の歴史に刻まれた、数学者たちの数々のストーリーを辿ることによって、一つの世界の輪郭と、数学へと駆り立てられた人々の情熱を感じとることができる。

350年以上も永きに渡って、数々の挑戦を退けてきた「フェルマーの最終定理」を軸に物語は進むが、本書で描かれているのは、単なる謎解きでは決してない。むしろ、謎そのものを生み出す、人間の探究心についての書である。

我々が日常生活で、あたりまえのように「知っている」こと。だが、そのような知識の起源には、まず「知らないこと」に気づくという、重大なステップがある。例えば、「何も無い」という状態を、ゼロと定義することの革新性について、こんなくだりが本書のなかにはある。

しかしゼロは単に位置を示すだけでなく、それ自身として深い意味をもつのである。そのことを完全に理解したのは、ギリシャ人よりも数世紀後のインド人だった。インドの数学者たちは、ゼロが“無”を意味していることに気づいたのである。こうして“無”という抽象的概念にはじめて具体的な記号が与えられることになった。
このことは現代の読者に小さな一歩にみえるかもしれないが、アリストテレスをはじめ古代ギリシャの哲学者は誰一人として、ゼロがもつこの深い意味には気づかなかった。アリストテレスなどは、ゼロを数に含めればおかしなことが起こるから、使用禁止にすべきだとまで言ったほどである。それというのも、ゼロで他の数を割ると、わけのわからない結果になるからだ。しかし六世紀ごろのインドの数学者たちは、こういう「臭いものには蓋」式の考え方をやめていた。七世紀のブラルマーグプタにいたっては、ゼロによる割り算を利用して無限大を定義するほどの知識をみにつけていたのである。(p.107)

無を理解することによって、無限大を手に入れる。まるで禅の世界のような話だが、つまり人間は、このような理解によって、認知の領土を飛躍的に広げてきたようだ。理にかなっていれば、後世の人間はさしたる苦労せずに、(ゼロの)存在を知ることができる。現実と定義が、見事に調和していて、まったくの矛盾がない。そのような存在を、定理と呼ぶ。

定理とその証明は、紀元前6世紀、ピロソポス(知恵を愛する人)と呼ばれた、ピュタゴラスの教団によって、はじめて形づくられる。自分もよく理解していなかったこともあり、本書から少々長い引用をさせていただく。

典型的な数学的証明は、一連の公理から出発する。公理とは、真であると仮定された 命題、あるいは真であることが自明な命題のことである。そこから一歩一歩論理的な議論を積み重ねていって結論にたどり着く。公理が正しく、論理が完全であれば、結果として得られた結論を否定することはできない。こうして得られた結論が定理である。 数学の定理は、この論理的なプロセスの上に成り立っており、一度証明された定理は永遠に真である。( p. 57 )

(中略)

X2 + Y2 = Z2

同様にピュタゴラスは、すべての直角三角形が彼の定理にしたがうことを示す証明を作り上げたのである。ピュタゴラスにとって数学的証明は神聖なものであり、教団が多くの発見をすることができたのも証明のおかげだった。現代の証明のほとんどは信じられないほど複雑で、一般人にはその筋道をおうことすらできないだろう。しかし幸いにもピュタゴラスの定理の論証はわりあい簡単なので、高校程度の数学がわかっていれば証明することができる。証明の概略を補遺1に記した。

ピュタゴラスの証明には反駁の余地がない。彼の定理はこの世のすべての直角三角形において成り立つのである。この発見の重大性にかんがみ、神々への感謝のしるしとして百頭の牡牛が犠牝に供されたといわれている。この発見は数学における一つの里程標であり、文明史的に見ても最大級の快挙といえるだろう。それは二重の意味で重要だった。第一に、これによって証明という概念が生み出されたこと。証明された数学的結論は、論理を一歩一歩積み上げることで得られるという意味において、ほかのいかなる真理よりも真である。哲学者タレスはすでに素朴な幾何学的証明をいくつか作り出していたが、ピュタゴラスは証明という概念をさらに推し進めることによって、はるかに独創的な命題を証明してみせたのだった。ピュタゴラスの定理がもつ第二の重要性は、抽象的な数学の方法を具体的なものと結びつけたことにある。ピュタゴラスは、数学的真理が科学の世界にも応用できることを示し、科学に論理的な基礎を与えたのである。数学は、厳密な出発点を科学に与えてくれる。科学者はこの堅固な基礎の上に、厳密にはなりえない測定と、完璧ではありえない観察とを付け加えてゆくのである。(p.63)

まったく矛盾の無い、完全という状態。証明によって、手に入れることができる永遠という存在。その魅力に天才達が引き寄せられ、あるものは歴史の波に翻弄され、あるものは偉大な発見と栄光を手にする。ドラマチックなストーリーの数々が、真実という舞台の力を得て、活き活きと語られていく。

その中でも、フェルマーの最終定理を証明する重要な中核となった「谷山=志村予想」を巡る史実には、なにか特別に惹かれるものを感じた。完全に別々に存在すると思われていたふたつの世界が、実は相互につながっているのでは?という谷山=志村予想。これまでは、決してたどり着けないと思われていた未開の場所に、突然現れた鏡の扉を使うことで、景色の裏側に入り込み、見慣れた道標を辿るだけで目的地を目指すことができる。「二つの世界にかけられた橋」と表現されている谷山=志村予想は、探究心を持つものならば、誰でもが憧れる、新しい世界へと続く扉のようだ。

ハーバード大学教授のバリー・メーザーは、谷山=志村予想が力を得ていったようすをこう語った。

「みごとな予想でした。どの楕円方程式にも一つのモジュラー形式が付随しているというのですから。しかしはじめのうちは無視されていましたね。あまりにも時代に先駆けていたからです。最初に提示されたときは相手にもされなかった。まさに仰天するような理論だったのです。あっちには楕円の世界、こっちにはモジュラーの世界。この二つの世界はそれぞれ精力的に研究はされてはいたが、あくまでも別の世界だった。楕円方程式を研究している数学者はモジュラー形式のことには詳しくなかっただろうし、その逆も言えたでしょう。そこに谷山=志村予想が登場して、完全に別の二つの世界に橋が架かっているという壮大な推測をしたのです。そう、数学者という連中は、橋を架けるのが大好きなのです。」

数学における橋には莫大な価値がある。橋が架かれば、別々の離れ小島に住んでいた数学者同士が、互いにアイデアを交換し合ったり、相手の作り出したものを詳しく調べたりできるようになるからだ。数学とは、無知の海に浮かぶ知識の島々からなる世界である。形について研究する幾何学者たちの島もあれば、数学者たちがリスクや偶然を論じ合う確率の島もある。何十もの島のそれぞれが独自の用語体系を持っているため、島が違えば住民の話していることもさっぱりわからなくなる。幾何学と確率とではまったく別の言葉が使われているし、微分積分学の俗語は、統計学の言葉しか話さない人たちにとっては意味不明なのである。

谷山=志村予想は、二つの島を結んで住民たちを交流させるという素晴らしい可能性をもっていた。バリー・メーザーに言わせれば、谷山=志村予想は、ロゼッタストーンのような翻訳の道具なのである。ロゼッタストーンには、古代エジプトの民衆文字、古代ギリシャ文字、ヒエログリフ(神聖文字)の3つの文字が並べて刻まれていた。民衆文字とギリシャ文字はすでに解読されていたため、考古学者はこれによってはじめてヒエログリフを解読できるようになったのである。 「ロゼッタストーンがあれば、一つの言語を知る人間が、もう一つの言語も深く理解できるようになりますが、それと同じことなのです」とメーザーは言う。「しかも谷山=志村予想は、魔法の力をもつロゼッタストーンでした。この予想は、モジュラーの世界では簡単なことが、楕円の世界では深い真実になり、その逆もまた言えるというありがたい特徴をもっていた。さらに言えば、楕円の世界では難しくて解けない問題を、このロゼッタストーンを使ってモジュラーの世界に翻訳する。そして、モジュラーの世界でアイデアとテクニックを見つけることができれば、楕円の世界でもはじめの問題が解けてしまうのです。楕円の世界だけに引きこもっていたなら、われわれは途方に暮れるしかなかったでしょう」

(p.299)

書籍のなかでは、志村吾郎氏のこんな言葉も紹介されている。今の自分では、まだこの言葉の意味を、本当に理解するのは難しいのかもしれない。ただ、その「知らないこと」に気づくことが、この本から何か大きな影響を受けたという事実なのかもしれない。

「私は、良さ(goodness)の哲学というものをもっています。それは、数学はその内に良さをそなえていなければならないということです。楕円方程式の場合であれば、モジュラー形式でパラメトライズできる方程式は良いものと言えます。私は、すべての楕円方程式が良いものだと期待しているのです。これはかなり粗い哲学ですが、出発点にするのならかまわない。もちろん私は次のステップとして、この仮説を支持するさまざまな専門的根拠を見つけなければならないわけです。この予想は、良さの哲学から芽生えたものと言ってさしつかえありません。たいていの数学者は、自分の美意識に照らして数学をやっているものです。そして良さの哲学は、私の美意識から生まれたものなのです」(P.297)

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by G-Tools , 2007/01/08