神道の逆襲:日常のなかの真理

「これから1週間、同じヨットの上で暮らすわけだが、無用なトラブルを防ぐためにも聞いておきたいことがある。」と、ガラにもなく神妙な顔立ちで、アフリカの孤島に浮かぶPemba Afroatの酔いどれ船長が尋ねたのは、「君は、どんな神を信じているんだ?」という質問だった。

世界各国から訪れるゲストへの、もっぱら現実的な質問だったのだろう。なれない種類の質問に、遠い記憶を辿りながら、なんとか八百万の神の話などをした。日本昔話か初詣ぐらいでしか触れたことのない、はなはだいい加減な説明だったが、見渡す限りの大自然に囲まれて、ひっそりと浮かぶヨットの上では、そこかしこに神は現れる、という説明になんとなく、船長も曖昧にうなづいていた。

(本居)宣長のいうところは、それが人であれ、動植物であれ、自然現象であれ、ともかくもそのものが、私たちにとって「可畏(かしこ)き物」、すなわち身の毛もよだつような異様なものとして出会われれば、それが神なのだということである。この定義は、今日私たちが、名人・達人・奇人・変人の類いを「〜の神様」と呼んではばからない、日本語の「カミ」という言葉のニュアンスをよく言い当てている。と同時に、人格的な唯一創造主ゴッド(God)に、神という訳語を当てたことが、我が国の翻訳史上、最大の失策であったことをも納得させてくれる。

神道の逆襲 p.34)

神道の逆襲」を読んだ今であれば、もう少し的を得た説明ができたかもしれない。曖昧だけれども、確実に記憶のなかに存在する、日常の中の異質な光景。例えば、たまたま旅先で、ブラリと田舎のあぜ道を歩いていて、通りすがりに小さな神社を見つける。何の気なしに足を止めて、古びた鳥居を見上げていると、背後からザワッと吹いた風に木の葉が揺れ、突然、周囲に誰もいないことに気づく。誰もいないはずなのに、誰かに見られているような視線を感じながら。

私たちの眼前に、普段通りの変わらぬたたずまいを見せている山や川。そこで営まれる、働き、子を育て、食べ、休息する、私たちの当たり前の暮らし。見慣れた景色と当たり前の暮らしを、私たちは変わることのない自分たちの世界のありようであると信じている。私たちは、普段、そうした見慣れた日常を、あらためてそれが何であるかと問うことはない。しかし、神はある日突然に出現する。景色は一変し、私たちの生は動揺する。一変した風景が元に戻り、私たちが「記憶と常識」とを回復するまでの時間こそが、私たちの神の経験である。この神の経験は、私たちが普段何気なく送っている生や、取り立てて意識することのなかった日常の風景を、今や失われてしまったものとして、また、一刻も早く取り戻されるべきものとして、意識的に問い直していく契機となる。知らぬままに道を失っていた「迷ひ子」の私たちは、あらためて、道を尋ね求めるのである。神道とは、根源的には、神という一つの事件をきっかけに、私たちが歩いてきた道、これから歩いていくべき道を探求することに他ならない。

神道の逆襲 p.37)

神道の逆襲」は、日本における神道の成り立ちを歴史的に解説するだけでなく、それが我々の生活のどのような場面に「あらわれる」のか、花咲か爺さんや浦島太郎など、誰もが知っている昔話を例えに、具体的なイメージを喚起してくれる。時たまひょっこりあらわれる、風変わりなお客様(=神様)との付き合いのイロハは、祖先から伝えられてきた物語や、季節の行事として、今なお身近な生活に散りばめられている。

神道には定まった教義や教典がない、という理解はやや一面的すぎるようだ。むしろ、日本史における思想家たちの探求の数だけ、尋ね求めた道があるということなのかもしれない。本書の後半では、歴代のカリスマ的な神道宗教家が、社会にどのような影響を与えたのかが解説されている。その過程における、政(まつりごと)との不可避な接近や、大衆心理の操作にもつながる危うさについては、宗教の基礎知識としても興味深い。

ただ、やはり本書の核たる面白さは、日常における人とカミの出会いと、それを通じた真理への探究にあるのではないかと思う。どのように人々は、自然や、目の前の光景を感じ取り、「物のあわれ」という言葉に表される独特の心情として、世界を理解しようと思いをはせてきたのか。

物のあわれというのは、簡単にいえば、事物に出会ったときに「心が動く」ということである。人が事物に触れるとき、心はそれに反応して嬉しい悲しいとさまざまに揺れ動いている。このアナログメーターの針の動きのような心の動揺における事物の感知が、物のあわれを知るということであるとされる。そして、この心の動揺が著しく大きいときには、その動きは声となって表にあらわれる。この歎息の言葉もまたあわれとよばれる。あわれとは元来、「ああ」という歎息の声である。この声は、心の動きそれ自体の表現であり、動きの大きさ、すなわちあわれの深さを表示するものである。あわれが深ければ、それはおのずと声となってあらわれる。この歎息が歌の根源なのだと、宣長はいうのである。
神道の逆襲 p.224)

(中略)

人は、時々刻々移ろいゆく事物の姿を通してのみ真理に出会いうる。時間の経過としてしか出会うことのできない真理を、自覚的に把握しようとする営みが物語である。時間の中を自由に行き来することのできない私たちが、時間の移ろいとして出会われる事物をつかまえるためには、その時間を意識的に辿り直す以外に方法はない。身体を持つ私たちは時間に逆らうことはできないが、私たちの意識だけは、時間をさかのぼることができる。小林秀雄(1902〜83)が「上手に思い出すこと」(『無情といふ事』)とよんだこの意識的な辿り直しの形が、物語(としての歴史)である。物語は真理の時間的な表現、あるいは時間において出会われた真理の形なのである。

宣長の見るところ、真理は、その出会い方の性質上、仁義礼智といった条理・概念の体系としては把握できず、ただ、物語の全体の形でのみとらえうるのだということになる。別の言い方をすれば、私たちは物語の読み(解釈)を通じて、物語全体としてあらわれている真理を知ることができるのだということである。あえて単純化していえば、真理は物語のストーリー(モチーフ・構造)として私たちの前にあるということになる。そして、後に見るように、宣長は、物語の構造としてあらわれているところのものを、「道理」の名でよんでいるのである。
神道の逆襲 p.229)

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神道の逆襲
菅野 覚明
講談社 2001-06

by G-Tools , 2007/02/27