禅とオートバイ修理技術—価値の探究

この本は、手に取ってから読み終わるまで、最も時間を必要とした書物のひとつかもしれない。『禅とオートバイ修理技術—価値の探究』、Amazonの購入履歴を調べてみたら、買ったのは2004年の10月。足掛け3年近くで、ようやく読み終えた。

元大学教授(著者)が、息子をバイクの後ろに乗せ、アメリカの荒野を疾走する。目的地すらわからない。ひたすらに広大な風景の中、アクセルを絞り続けると、徐々に意識が拡散しはじめる。気がつくと、アスファルトの道路に平行するように、失った自分の記憶の道が立ち現れる。その道は、過去へと続いているはずだが、どこへ向かうのか、行く先は深い霧に閉ざされている。なぜなら彼はその昔、狂気の道に迷い込み、自我を喪失した状態で、電気ショック療法によってそれまでの記憶を完全に破壊されてしまったからだ。

野蛮な”治療”によって、すべての記憶の鎖はバラバラに断ち切られてしまった。しかしだからといって、まったく新しい人格が生まれるわけではない。かろうじて保った自分の根源を土台に、飛散した記憶の断片をつなぎ合わせる、果てしのない旅が始まる。

オートバイは、あらゆる構成概念の集積によって生まれた鋼鉄のシステムである。だが鋼鉄には本来部分というものはないし、形もない。またそれは人間の精神によってもたらされたものでもない・・・・。三番目のタペットは正常。もう一つある。が、その前に気づいたことがある。鋼鉄に関わる仕事をしたことのない人は、オートバイが本来精神的な現象であると聞いて、だいたい困惑してしまう。金属といえば、こうした人は形のあるものを連想する。パイプ、ロッド、ガーダー、工具、部品など、これらはすべて一定の侵しがたい形を持っている。だからもともと形があるものだと思ってしまうのだ。だが、機械製造、鋳造、鍛冶、溶接などの仕事に携わる人は、「鋼鉄」に形があるなどとは思ってもいない。熟練した人であれば、鋼鉄を思いどおりの形にすることができる。形というものは、このタペットのように、人が考え、人が鋼鉄に与えるものなのである。鋼鉄には、エンジンのまわりに付着した泥の固まりほどの形もない。形はすべて、人間の精神によってもたらされるものなのだ。

禅とオートバイ修理技術—価値の探究 p.181』 より

失った記憶を取り戻す旅。オートバイは、その旅を導く重要な道具となる。単に場所から場所へと人を運ぶ手段としてではなく、それを操り、つねにエンジン音に耳を傾け、異常に気づけば道路脇で修理し、カーブにさしかかれば体重を預けて道路と一体化する。自分とオートバイという、二つの物質を意識の中で同化させること。二つの間の空間から、先入観や恐れなど、無駄な感情を排除し、心を落ち着かせた状態でメインテナンスをおこなう。完全に調和のとれた瞬間に、あるがままの姿に目を向ければ、そのものが持っている本来の意味を見いだすことができる。

オートバイを、間違いなく整備する。ただそのことだけを、正しくおこなう難しさ。その理由を哲学的に突き詰める過程で、脳のシナプスが、分断され孤立していた記憶の断片に電気信号を送りはじめる。一日中バイクにまたがり、ひたすらスロットルを空け、走り続ければ、思考を巡らせる時間はいくらでもある。その思索の時間を、著者は『シャトーカ』と呼ぶ。オートバイの修理技術に始まり、テクノロジーと人間の関わり合い、あるいはその間の分断と、再びそれらを融合させる『クオリティ』についての探求は、実は失われたもう一人の自分が過去に歩んでいた道のりでもあった。しかし、哲学を学び、独自の思考体系に取り憑かれていた過去の彼は、その過程で狂気の淵へと沈んでいったのである。記憶の霧の彼方から現れる、自らの亡霊は、はたして何者だったのか。そして、過去と現在という二つの自分を知る息子のクリス。バイクの後ろに乗り、共に旅にすることで、二人の間に何を取り戻すことができるのか。

この書物の全体を評することはとても難しい。記憶や知識の断片が、旅を進めるにつれて徐々に本来の姿を取り戻していく。その一人の思考の過程が、そのまま記されているからだ。ふと気を抜いていると、著者の思考が急に自分の中に流れ込んでくるようで、混乱することすらある。その文章は、しかしあくまでも、目の前のものごとについて真摯に向き合う姿勢がつらぬかれていて、心地よく記憶に留まるのである。

たとえば、バイクのサイド・カバーのネジがきつくて外れなかった場合、だいたいの人は、そうなってしまった特別な原因が何かあるのかどうかを調べるために説明書を見る。だがそこには技術解説書特有の実に素っ気ない表現で、「サイド・カバーを取り外す」としか書いてなく、知りたいことは何ひとつ載っていない。もし場数を踏んできた人であれば、おそらく油をさしてからそこにドライバーを当てるだろう。だが経験の浅い人ならどうか。かつてうまく行ったからといって、ドライバーの柄に自動ロック式のプライヤー・レンチを取り付けて、思いきりねじりまわすかもしれない。だが今度ばかりはそうはいかない。ネジ溝を崩してしまうだろう。

心はすでにカバーを外した後のことに飛んでいるのだ。ネジ溝を崩してしまったというこの些細な不安とイライラが、それほど些細なものではなかったことに気づくまで、あまり時間はかからない。どうしようもない。仕事を進めるにも進めようがない。終わりだ。オートバイの修理はこれでまったくできなくなってしまうのだ。

(中略)

直情型の人間であれば、もうこの時点でたがねとハンマーを持ち出したくなるのが普通だ。必要とあれば、鍛冶屋のハンマーでたたき割りたくもなる。考えれば考えるほど、それだけいっそう神経が昂り、高い橋の上からバイクを突き落としてしまいたくもなる。まったく埒(らち)もない話だが、ほんのちっぽけなネジ溝のために、身も心もすっかり打ち負かされてしまうのだ。

ここで直面するのは、大いなる未知、西洋思想の空隙である。解決の糸口になるアイデア、すなわち仮説が必要になる。残念なことに、従来の科学的方法ではとりつく島もない。従来の方法で識別できるのは、視力で言えばせいぜい1.0、つまり正常範囲内に限られる。一般的によく知られているものを鑑識するにおいては十分であるが、過去に一定の連続性がなければ、進むべき道を識別することはできない。創造、独創、創意工夫、直感、想像 --- いわゆる行き詰まらないこと --- これらはまったく科学の範疇の埒外にある。

(中略)

行き詰まりは、何事についてもその本質を理解する上での先達である。だから決して避けてはならない。技術的な仕事においても同じことが言える。行き詰まりを無心に受け止めることが、《クオリティ》を理解する鍵なのだ。学校で正規の訓練を受け、あらゆる問題の処し方を学んだ修理工よりも、独学で腕を磨き上げた者のほうがしばしば力を発揮するのは、だび重なる行き詰まりによってこの《クオリティ》を会得しているからである。どんな状況にも無心に対処できるのだ。

だいたいネジというものは、小さいうえに作りも単純で、値段も非常に安い。重要性があまり感じられないのはそのためである。だがいったん《クオリティ》の存在に気づき、その認識がますます強くなってくると、このネジの一つ一つが取るに足らない安価なものではなく、実に大切なものであることが分かってくる。このネジが、オートバイ本体の価格とまったく同じ価値を持ってくるのだ。なぜならこのネジを取り出すまでは、現実的なオートバイの価値はまったくないからである。ネジ一つをとっても、このようにその価値を再評価してみると、おのずとそのネジに関する知識が拡大される。

つまりネジの実体を再認識するのである。そのネジに精神を集中し、よく考え、長い間行き詰まったままでいると、やがてそれがある部品の一特性を備えた物としてではなく、それ自体ユニークな特性を持った物であることに気づく。そしてそれに精神を集中していくと、そのネジが単なる客体ではなく、さまざまな機能を支配する集合体であることが分かってくる。つまり行き詰まることによって、従来の思考パターンがしだいに排除されてしまうのだ。

前のように、主体と客体という永遠の分離がなされると、それぞれの存在に対する考え方はしっかりと固まるが、「ネジ」という一つの部類が作り上げられることによって、それが冒すべからざるもの、目前の現実よりももっとリアルなものになってしまう。その結果、いかにしたら行き詰まらないですむかを思案することができなくなってしまう。新しいことは何ひとつ思いつかず、何ひとつ見えなくなってしまうのだから。

ところが今、そのネジを取り出すに当たって、もはやそれが何であるかなど問題ではない。ネジは思考の領域を越えて、連続する直接的経験に変わっている。もはやそれは列車のどの車両にもなく、その前面に出て、絶え間なく変化し続けているのだ。こうなると関心の的は、それはどんな働きをし、なぜそのような働きをするのかという、その機能の問題になってくる。

禅とオートバイ修理技術—価値の探究 p.477』 より

photo
禅とオートバイ修理技術—価値の探究
ロバート M.パーシグ 五十嵐 美克 兒玉 光弘
めるくまーる 1990-04

by G-Tools , 2007/05/24