茶の道

日々の暮らしが、まだ自然の中の一風景であった時代。それでも、すでに社会は形づくられ、雑事のあふれる日常から解放される空間が、ときには必要だったのだろうか。今風にいうならば、癒しの時間か。

庭を掃き清め、季節の彩りを添え、茶をたてて、客をもてなす。その一切は、凛とした静寂のなかで滞りなく進行する。茶室を取り巻くすべての事象は、完全なる調和につつまれ、その象徴たる鮮緑色の液体を飲み干す。

洗練された作法と様式によって、自らの意識を、日常の外側に引き上げるという意味では、一種の宗教的体験ともいえるのかもしれない。ただ、その原動力は信仰というよりは嗜好。理想の空間、無駄のない所作、立ち振る舞い、そして自然な調和のもたらす平穏な時の流れ。嗜好も真に突き詰めると、生きる道に通じるのだろうか。

陸羽によれば、山の湧き水が最上で、江水とい井水がこれに次ぐ。沸かすには三つの段階がある。第一沸は、魚の目のような小粒の湯玉が表面に泳ぐ。第二沸は、湯玉が湧き水の中の水晶玉のように転々する。第三沸は、釜の中の湯が荒波をたてる。団茶は嬰児の腕のようにやわらかくなるまで火にあぶり、上質の紙片にはさんでこなごなに切りきざむ。塩を第一沸の湯に入れ、第二沸で茶を入れる。第三沸で、ひしゃく一杯の冷水を釜に注ぎ、茶を静め、「湯の若さ」をよみがえらす。それから茶を茶碗に注いで飲む。ああ、なんという甘露!薄膜のような若葉は晴天にかかる鱗雲のようであり、あるいは鮮緑色の流れに浮かぶ水蓮(すいれん)のようである。唐の詩人廬仝(ろどう)が歌ったのはこのような茶についてであった。「一碗は我が唇と喉を潤し、二碗はわが孤悶(こもん)を破る。三碗、わが枯腸(こちょう)を探れども、そこに五千巻の文字を見出すのみ。四碗、わずかに汗を発し、平生不平の事ことごとくわが毛孔より散ず。五碗にして肌骨(きこつ)清く、六碗は不死の国にわれを招く。七碗 —−−ああ、しかしもはや喫し得ない。ただ両腋に清風の息吹を感ずるのみ。蓬莱(ほうらい)山はいずこにある。この清風に乗って、ふわふわと漂い行こうではないか。」

茶の本 p.30』 より

他に小堀遠州のような茶人は別の効果を求めた。遠州は、露地の着想は以下の句の中に見いだされると言った。

夏の木立の群れ
わずかにみえる海
淡い夕月

遠州の言わんとするところを推測するのはむずかしくない。彼が創造しようと願った態度は、目覚めたばかりの魂がいまなお、過去の暗い夢の中から脱けきれずにいるが、やわらかい霊光の甘い無意識の中に浸って、彼方の天空にある自由にあこがれている、といったものである。

こういう心がまえで客は黙々と神聖な場所に近づいていく。

茶の本 p.56』 より

以下あとがき解説より。

『茶の本』ぜんたいが音楽的であり、その主要モチイフの見事な反復と変奏といふ特徴があることに気がつく。たとえば第六章「花」の中に、

・・・いらいらするような暑い夏の日中、ひるさがりの茶室に入ると、薄暗くひんやりした床の間に、百合がたった一輪、掛け花瓶に挿してあるのを発見するであろう。露にぬれて花は、人生の愚かしさに微笑んでいるようにみえる。

この美しい旋律は、第一章「人情の碗」のをはりに鳴る次のやうな主題の変奏にほかならない。

その間に、一服のお茶をすすろうではないか。午後の陽光は竹林を照らし、泉はよろこびに泡立ち、松籟はわが茶釜にきこえる。はかないことを夢み、美しくおろかなことへの想いに耽(ふけ)ろうではないか。

そしてこの主題は、最後の章「茶の宗匠たち」で、道教風の超越的瞑想の思念のかたちをとる。

われわれが人生と呼ぶ、愚かしい労苦の狂瀾怒濤(きょうらんどとう)に浮かぶ自分自身の存在を、正しく律する秘訣を知らない人びとは、幸福と自足の外観をよそおうことにむなしく努めながらも、いつも悲惨な状態にいる。われわれは、精神の平静を保とうとしてはよろめき、水平線上に浮かぶどの雲にも、嵐の前兆をみる。しかし、永遠にむかってうねって行く大波の中に、喜びと美がある。なぜ、大波の霊に共鳴しないのか。あるいは列子のように、つむじ風に跨がって行こうとしないのか。

茶の本 p.114』 より

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茶の本—英文収録 (講談社学術文庫)
岡倉 天心 桶谷 秀昭
講談社 1994-08
評価

東洋の理想 (講談社学術文庫) 代表的日本人 (岩波文庫) 「いき」の構造 他二篇 (岩波文庫) 武士道 (岩波文庫) 禅と日本文化 (岩波新書)

by G-Tools , 2007/09/17