弓と禅

『禅によって規定された芸術の師範は、誰でも皆、一切を包む真理の雲から出た稲妻のようなものである。』

生まれた土地から遠く離れた、極東の島国。突如として雷光が閃き、そのような稲妻に身を射たれた瞬間、脳裏にはどのような記憶が焼き付けられるのだろうか。ドイツの哲学者、オイゲン・ヘリゲル氏は、その記憶を丹念に言葉にし、『弓と禅』という書にまとめた。

時は1924年、大正13年。すでに10年前に、日本郵船の欧州航路が開設されたとはいえ、日本への道のりは、決して短い距離ではなかったであろう。神秘説に多大な関心を持ち、しかし学術書を通じてでは、その周辺にしか立ち入ることができない。真に体験としての理解を求めていたヘリゲル氏は、東北帝国大学での哲学の講師、禅の国への訪問という機会を得て、インド洋を軽やかに飛び越え、東北の地にたどり着いた。

関東大震災を経て、東京は近代都市に姿を変えつつある時代。しかし東北地方の自然には、まだまだ西洋近代文明を寄せ付けない、日差しの中の生命力と、夜の闇の濃さがあったに違いない。宮沢賢治が、イーハトーブを描き、銀河鉄道を走らせた光景である。

そのような風景を思い浮かべながら、『弓と禅』のページをめくると、そこに記されているのは、まさにその時代の西洋と東洋の対話に他ならないと思えてくる。一方のヘリゲル氏は、ドイツの哲学者。他方は、精神としての弓道を究める阿波研造名人。弓道の修練における、弟子と師匠。その間には、当然のことながら、大きな知識と経験の隔たりがある。師匠の言うことがどうしても理解できない、あるいは理性的に考えると納得がゆかない。現代人として、その対話を読む自分は、日本人でありながらヘリゲル氏の立場に共感してしまうのだ。頭で理解しようとする弟子に、そうではないと、師は繰り返し、忍耐を持って説明する。

その時師範は声を大にしていい放った。「正しい弓の道には目的も、意図もありませんぞ! あなたがあくまでも執拗に、確実に的にあてるために弓の放れを習得しようと努力すればするほど、ますます放れに成功せず、いよいよ中りも遠のくでしょう。あなたがあまりにも意志的な意志を持っていることが、あなたの邪魔になっているのです。あなたは、意志の行わないものは何も起こらないと考えていられるのですね。」

「しかし先生御自身、今までしばしばおっしゃったではありませんか」。私は異議をさしはさんだ。「弓射は決して暇つぶしや目的のない遊戯ではなく、生死を賭けた一大事である」と。

「それはどこまでも主張します。我々弓の師範は申します。一射 ー 一生と。これはどんな意味かあなたは今のところまだお分かりにならないでしょう。が同じ境地をいい表している別の喩(たとえ)がおそらくお役に立つでしょう。我々弓の師範は申します。射手は弓の上端で天を突き刺し、下端には絹糸で縛った大地を吊るしていると。もし強い衝撃で射放すなら、この糸がちぎれる虞れがあります。意図をもつもの、無理をするものには、その時天地の間隙(かんげき)が決定的となり、その人は天と地の間の救われない中間に取り残されるのです。」

弓と禅』 p.59 より

この『有心と無心』の心構えは、繰り返し、様々な表現で説明されている。

「それはただ、あなたが本当に自分自身から離脱していないためです。このことを感じとりなさい。それはしごく簡単なことです。要点はありふれた竹の笹から学べます。雪の重味で笹は次第に低く圧し下げられる。突然積もった雪が滑り落ちる、が笹は動かないのです。この笹のように一杯に引き絞って満を持していなさい。射が落ちてくるまで。実際射とはそんなものです。引き絞りが充実されると、射は落ちねばなりません。積もった雪が竹の笹から落ちるように、射は射手が射放そうと考えぬうちに自ら落ちてこなければならないのです。」

弓と禅』 p.86 より

この問答は、弓術を語っているようで、しかし、それとは別次元の世界観が、その背後から立ち昇っている。それは本来は、その時、その場所で、二人の関係の間においてのみ意味を持ちうるような、濃密な体験としての真実なのかもしれない。

『暗中の的』という章がある。狙うこと無く当てるということは不可能ではないか、という問いに対し、師範はその夜、ヘリゲル氏を誰もいない道場に呼び出す。何も語らずにお茶をふるまった後、立ち上がった師範は、細長い蚊取線香だけを的の前の砂地にさし、その小さな火玉しかみえない暗闇に向けて射を放つ。甲矢(はや)は的の黒点を射抜き、乙矢(おとや)は、甲矢の筈(はず)を砕いて、同じ場所に当たる。その体験をして、師範はヘリゲル氏の心までをも射抜く。

大正時代の夜の闇が、今よりもどれだけ深く、暗かったのか。東北の静寂に沈んだ空気を、どのような音をたてて、矢が振るわせ、的を打ったのか。文字を追う我々にできるのは、可能な限りの想像力をはたらかせて、その一瞬に思いを馳せることぐらいだ。しかし、それこそが本書の最大の魅力に他ならない。もはや日本人でも探すことは難しい、近代以前の日本の光景。その豊かな世界観を、より現代人に近いヘリゲル氏の、凝縮された瞬間の記憶を通じて、我々は、ほんのすこしだけ垣間みることができるのだ。

本書は一見すると、弓道というひとつのテーマにそって書かれているように読めるが、むしろそれを内包する、古くから日本人が尊んできた精神のありように対する、ヘリゲル氏のつきない探究心に核があるのだろう。その問いへの、師範の答えが持つ、表現としての美しさ、心を打つ率直さは、そのような思想が確かに根ざしていたという証明である。もし仮に、氏の記述に、多少の主観とロマンティシズムが入っていたとしても、それは何ら本書の価値を損なうものではない。畏敬の念は、およそ主観的なものであるし、個人的な体験こそが、イメージとして強く語り継がれるものだからだ。

ヘリゲル氏は、禅における精神の自由自在性について、自己の意識のありさまを分析し、緻密かつ丹念に書き表している。こちらも果てしなく読み応えがあるのだが、これはもう、まとめることなど本来的に不可能なので、印象的な一文を、書き写すことに留めることにする。

それは身体の力を抜いた状態になることであったが、それなしには正しく弓を引くことができないのである。ところが正しい放れに成功するためには、体の力を抜いた状態をば、さらに心や精神の力を抜くことまでにまで続けて行わねばならない。それはただ単に精神を動的にするばかりでなく、これを自由にするという終極目的のために。

(中略)

まずもって感覚の門を閉じよとの要求は、精力を使って無理に感覚に背を向けることによってではなく、むしろよろこんで、抵抗なしにこれを回避しようとする心構えによって満たされる。しかしこの無作為の態度が本能的にうまく行われるためには、精神は一種の内面的な足場を必要とするがそれは精神を呼吸に集中することによって得られるのである。集中は意識的に、またまさに杓子定規と思われるほど良心的に遂行される。吸気と呼気はいつも別々に考えられ、念入りに行われる。この錬磨の成果は待つほどもなく現れてくる。呼吸への集中が内的に度が強くなればなるほど、外の刺激が色あせてくる。刺激は沈下してもうろうとしたざわめきとなるが、これは最初はぼんやり聞こえる程度であり、最後にはもはや邪魔に感じられないのである。例えば、ひとたび慣れるともはやほとんど聞こえぬようになる海のざわめきのように。時の経つにつれて相当に強い刺激に対してすら無感覚となり、同時に刺激から独立した状態が次第に容易にまた急速に現れてくる。ただ起居、座臥(ざが)の際できるだけ身体の力を抜いているように心がけさえすればよい。そして呼吸に集中すれば、やがて不透明な覆いによって隔離されているような感じがしてくるのである。

弓と禅』 p.64 より

弓と禅 改版
オイゲン・ヘリゲル 稲富 栄次郎 上田 武

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