海の帝国--アジアをどう考えるか

200年前の海を旅すると、どんな景色が見えるのだろうか。排気ガスで霞み、不格好な建物が立ち並ぶ現代の港でなく、緑の島の入江に浮かぶ、木造の帆船。白い砂浜に点在する漁村。精緻な世界地図は存在せず、陸の奥、水平線の先には、まだ未知の領域が広がっていた。ある者は、探究心に突き動かされて、あるいはもっと現実的に、富や領土をもとめて、様々な思惑を乗せた船が、アジアの海に航跡を残していたに違いない。

海の帝国--アジアをどう考えるか』が描くのは、まさにそのような時代。東南アジアを舞台に、帝国と海賊、原住民と移住者が入り乱れて覇権を競った、激動の海の歴史である。

日本は島国とはいえ、国土は十分に広く、近隣諸国には限られた地域しか隣接していない。比較的安定した地理条件をもっているゆえに、鎖国も可能だったのだろう。一方で、フィリピン諸島、インドネシア、マレー半島、シンガポール、タイなどは、無数の群島がお互いに隣接し、自由に往来することができる。そして、植民地主義が急拡大した時代において、アジアとインド洋、さらにはヨーロッパを結ぶ、重要な交易ルートになっていた。戦略的な重要性は、地域に利権を生み、アジアのなかでもいち早く、自由貿易経済の洗礼を受けることになった。

いってみれば、何百年と平和に暮らしていた島々の暮らしに、突如として近代的な社会制度、経済が持ち込まれたわけである。しかもそれは、進歩という理想的なものではなく、広大な植民地を、効率よく統治するための戦術として用いられた。必然的に、そこには矛盾、対立が噴出するわけで、そのような衝突のエネルギーが生み出す、地政学的なダイナミズムが、本書では詳しく解き明かされている。

海の帝国--アジアをどう考えるか 』 p.180 より

濱下武志氏はフェルナン・ブローデルの『地中海』を念頭において、「海のアジア」をこう定義する。

「アジアを考えるとき、『陸』のみに権力を集中させる視点は、必ずしもこの地域の理解に十分でない。むしろ歴史的にみて、北東アジアから東アジア、さらに東南アジアからオセアニアにかけて、いくつかの海域圏が存在し、海域をめぐって、その周辺に位置した国や地域および交易都市が相互に影響を与えあってきた歴史が存在していることが、この広域地域の大きな特徴である。この海域の大きさは、インド洋や太平洋のような『洋』oceanではなく、黄海や日本海のような『海』seaで示される範囲が考えられる。

(中略)

そして、それぞれの海域の周縁部に位置する地域の相互関係は、たがいに影響を与えあうには十分に近接した位置にあると同時に、決して同一化することはない距離を保ち、相互の独自性を維持してきたといえる。そして、海域が交易圏を形づくり、交易圏の周縁に交易港・交易都市が生ずる。交易圏相互が交錯する地点に、中継都市が形成され、この都市は、市場を整備し商人グループの居住区となり通貨を発行するなど交易の条件を整える」(濱下武志『アジアから考える(2)地域システム』)

ここで見るように、「海のアジア」は外に開かれたアジア、交易のネットワークで結ばれた資本主義的なアジアであり、それが「陸のアジア」、内に向いたアジア、郷紳(きょうしん)と農民のアジア、農本主義のアジアに対置される。

(中略)

「海のアジア」と「陸のアジア」の断層は、ある地理的範囲内で、気圧の谷間のように歴史的に動いてきた。それはかつて東南アジアの歴史のリズムにしたがって「海のまんだら」と「陸のまんだら」の勢力が消長を繰り返したこと、あるいはまた十九世紀末、二十世紀はじめ、イギリス主導下の集合的帝国主義の時代に、浙江(せつこう)、福建、広東から鉄道、河川に沿って中国内陸部へと侵入した資本主義的勢力が、第二次世界大戦後、中華人民共和国の成立とともに大陸から押し出されたことに見る通りである。

人間が、自分で見ることができる範囲は限られている。高い山に登っても、せいぜい数十Km、日常生活における視野は、それよりもっと狭い。だからこそ、『視野を広げたい』と思うわけだが、生理的に見える範囲が決まっている以上、それを補うには想像力を使うよりほかない。旅行記を読んだり、世界地図をみたり、行ったことのない場所を想像する。あるいは、今、自分のいる場所が、より大きな地図の上では、どこに位置づけられるのかを考える。風はどこから吹いてきて、嵐はどこで生まれるのか? より大きな地理感をもつことができれば、目の前の景色もまた、まったく違うように見えてくるはずだ。

現在の地図には、当たり前のように国境が記されてるが、そのラインが引かれたのは、たかだか100年前である。それより以前、人々は、もっと柔軟な世界認識をしていたのだろう。

p.45

つまり、東南アジアは19世紀半ば頃まで、見渡す限り水と森の拡がる人口稀少地域であり、ただ海上交通、河川交通の要路にマラッカ、パレンバン、マカッサルといった港市が成立し、(中略) 東南アジアは歴史的にそういった港市や人口の集住地があちらこちらにあって中心となる「多中心」の地域だった。そうした港市、人口の集住地にカリスマ的な「力」をもつ人物が現れ、これが「王」となってマレー世界のヌガラ、タイ世界のムアンなどとよばれる「国」を建てた。そうした「王」のなかからやがて並外れた「力」をもつ者が現れ、「大王」として「王」たちに号令を掛けるようになると、このとき「帝国」が成立した。東南アジア史の泰斗、オリヴァー・ウォルタースは、こうした東南アジアに固有の政治システムを「まんだら」システムと呼ぶ。まんだらとは「王たちの輪」の意味である。

この政治システムは、われわれのいう国家(近代国家)とはおよそ別のしろものだった。「王」「国」「大王」「帝国」といちいち括弧に括り、政治システムなどともって回った言い方をするのも、それ以外にわれわれが通念としてもっている国家とこれが別物であるということを示すうまい方法が思いつかないからである。

ではどう別物だったのか。第一に、近代国家は国境によって定義される。これに対し、まんだらシステムは中心によって定義された。大王は比喩的にいえば磁石のような存在だった。大王から磁力が投射され、かれを中心に磁場が形成される。磁場にはひとつの秩序がある。それと同じように大王を中心に各地の王たちのあいだにひとつの秩序が構成される。これが「まんだら」である。したがって、まんだらシステムに国境はなく、もちろん内政と外交の区別もなかった。まんだらは大王から投射される「力」が強ければ拡大し、弱ければ収縮する、そして大王の「力」が消滅すればまんだらは崩壊する。

p.59

まんだらには、その支配下の住民をトータルに、体系的に掌握するといった思想も能力もなかった。「王は虎、民は森」というジャワの古典のことばに示されるように、まんだらは秩序に意味を付与するものではあっても、住民の生活に日々大きな影響を及ぼすといったものではなかった。

海の帝国--アジアをどう考えるか 』 より

この部分を読んで、ちょっと不思議な感じがした。というのも、『まんだら』のもつ柔軟性のようなものを、まさに現代の社会、組織は取り戻そうと努力しているように見えるからだ。例えば日本の官僚制度、縦割り行政で硬直化しがちなシステムを、なんとか柔軟にしようとする改革は、つねに既得権益からの強い抵抗を受ける。あるいは逆に、新しいイノベーションを生み出せる組織は、柔軟で、オープン、つねに変化しつづけるための仕組みをもっている。

19世紀から20世紀は、近代国家の建設ラッシュに沸いた時代だった。都市が肥大化し、一極集中が進むことで、住環境が劣化した時代でもある。21世紀に入って、その揺り戻しから、地方分権、多中心の世界への志向が強まっている。

もちろん、近代化のもたらしたメリットは大きく、それを活かしながら、システムをさらに進化させることが求められている。改良のためには、近代的なシステムが、何をどう変えてきたのかを知ることが非常に重要だ。多中心の世界から、近代化、一極化に一気に進展した東南アジアの歴史は、この点からも興味深い。

p.56

近代国家とはなにか

「国家」は「文化」「社会」などと同様、便利ではあっても、これを単純明快に定義するのはそう簡単ではない。これはひとつには「国家」が「乗り物」と同じぐらい抽象度の高い概念であるためだろう。かりに「乗り物」を「自分の足を使わない人間の空間的移動手段」と定義すれば、「乗り物」のなかに肩車、駕籠からスペース・シャトルまですべて入ってしまう。

p.57

ビルマの初代首相ウ・ヌーはその自伝において、1948年のビルマ独立に際し、かれが首相として英国から継承した国家を自動車に喩える。

「はからずしもわたしが首相となり、自動車の運転席に座ることになった。しかし、わたしは自動車の運転はこれがはじめてのことで、もうそれだけでも大変なのに、この自動車のなんたる有様か、タイヤはパンクしオイルは切れラジエターは壊れている。しかも道路はおそろしく悪い」

p.58

こうしてみれば、近代国家をごく単純に「支配の機構、装置」と定義してよいだろう。国家は国民とは違う。国民が「想像の共同体」、つまり人々の心の中に想像されたものであるとすれば、国家は社会学的実体であり、教会、大学、企業などと同様、ひとつの制度、機構である。国家はそうした機構として独自のスタッフをもち、スタッフは年齢、教育、性別などの規則に応じて機構に「入り」またやがてそこから「出て」いく。また国家は機構としてそれ独自の記憶と自己保存、自己増殖の衝動をもっている。

海の帝国--アジアをどう考えるか 』 より

植民地主義は、帝国が領土を広げる、国土拡大のようなイメージを持っていた。しかし本書を読んで初めて理解できたのだが、国同士の戦いというより、会社による経済支配というイメージのほうが近いようだ。宗主国の政府が、植民地に期待するのは利益である。開拓されていない土地から、資源を調達する、あるいは商品価値の高い農作物を生産して、欧州の市場で販売する。その結果得られる利益によって、国の資本を増大し、軍事力などの国力を強化する。その結果、欧州内での覇権争いでも優位にたてる。

利益の追求を唯一の目標とする組織、まさに会社組織がこのときに誕生した。オランダ東インド会社は、世界初の株式会社である。生まれたばかりの会社組織は、現代の『企業』のように洗練されていない一方で、会社法など、後に生まれる制約も一切受けない、強力な組織である。株式制度による資本的なバックアップに加えて、宗主国の軍事力も行使することができる。また、貿易に関する独占権を与えられた、特許会社でもある。つまり、効率的に利益をあげるためには、何をしてもよいのだ。

しかし、アジアの広い地域を軍事的に制圧するのは、コストがかかりすぎる。物理的な強制力をもってコントロールできる範囲は限られている。そこで会社組織は、近代国家の統治の仕組みを利用し、擬似的な国家『会社国家』をつくりあげていった。会社国家には『国民』は存在しない。会社の利益のために貢献する従業員か、あるいは利益のためにモノを購入してくれる、顧客だけである。

手っ取り早いのは、従業員を顧客にもしてしまうことだ。労働の対価として支払った賃金を、会社の提供する娯楽やサービスで回収する。会社から離れられないように、より強い快楽を提供してあげればよい。アヘンが戦争の原因になるぐらい重要だったのは、それが組織の血液として、全体を統制するための手段だったからだ。こうして自己増殖が可能な、収奪のシステムができあっていく。まさに、『合法世界と非合法世界のトワイライトゾーン』である。

p.62

東南アジアにおけるイギリス自由貿易帝国の中核、海峡植民地は自由港として発展した。しかし、自由港では関税収入が入らない。いかに小さな国家といっても国家には人件費をはじめ、金がいる。海峡植民地国家はこれを中国人の経済活動から調達した。シンガポールにおいては胡椒、ガンビル栽培がそれだった。アヘン請負をはじめとする徴税請負がその手段となった。イギリス人の「信用できる」中国人が、入札によってアヘンの独占販売を請け負う。中国人の秘密結社が下請けとなって、胡椒・ガンビル農園で働く中国人の苦力(クーリー)にアヘンを販売する。政府はこうした徴税請負制度によって政府収入の50パーセントを超える収入を手に入れた。

(中略)

しかし、一口に中国人といっても、これらの人々はその出身地によって言語も違えば風俗習慣も違う。かれらはまた義興会、海山会、太伯公会などといった秘密結社に組織され、これらの秘密結社はアヘン請負、スズ鉱山の利権などをめぐって常に対立、抗争した。

(中略)

「原住民」人口はたかだか二、三万人程度であったから、「王」といってもたかが知れていた。しかし、それでも、理論的には、この「王」がスズ鉱山の鉱区の所有者であり、「王国」の主権者だった。したがって、王位継承問題がおこると、マレーの王たち、ブギス人の冒険者たち、イヌラン人の傭兵たちはそれぞれに王を擁立して争い、これに海峡植民地の資本家、秘密結社が加担して資金、兵力を提供した。

p.68

オランダ東インド国家はその意味で徳川幕藩体制国家とほぼ同じ頃の生まれであり、徳川幕藩体制国家が近代国家ではなかったのと同様、しかし、それとは違う意味で近代国家ではなく、十七世紀から十九世紀にかけて、ヨーロッパの外、西インド、東インドの地で、会社でありながら国家のように振る舞った「会社国家」のひとつだった。しかし、オランダ東インド会社は十八世紀末に破産し、1810年代はじめには東インドはイギリスの占領下におかれた。この国家がしだいにリヴァイアサンへと変貌をはじめるのはそのあと、ジャワがオランダに返還された1810年代半ば以降のことだった。

(中略)

自由貿易でイギリスに対抗できなければ保護主義しかない。ジャワは、海峡植民地とは違い、豊かな土地と人口に恵まれている。1800年、ジャワにはすでに500万の人口があった。ジャワ全土を囲い込み、ジャワの農民にかれらの土地で税金の代わりに労働力を負担させて砂糖、インディゴ、タバコなどのヨーロッパ市場向けの熱帯農産物を生産させる。そしてこれをオランダの王立商社が独占的にヨーロッパで販売する。強制栽培制度と貿易独占の組み合わせ、これが基本だった。

(中略)

東インド政府は、インドから輸入したアヘンの政府卸価格を海峡植民地におけるアヘンの販売価格の2−4倍に設定した。したがって、あたりまえのことながら、シンガポールからバリのブレレンを経由してジャワに、東インド政府の推計でも、政府卸アヘンとほぼ同量のアヘンが密輸入された。アヘン請負の成否は、請負業者がアヘン密輸業者を排除し、必要とあらば、みずからアヘンを密輸してでも市場の独占を維持できるかどうかにかかっていた。アヘン請負業者はこのため県知事を頂点とする原住民内務官僚とよしみを通じ、市場、賭博場、アヘン窟、売春窟などにあって、ときには内務官僚の手先ともなる「やくざ」を警察、スパイとして密輸アヘンの販売を取り締まった。

海の帝国--アジアをどう考えるか 』 より

植民地の拡大を目指した、このような初期の動きは、ある意味、冒険活劇的で分かりやすい。欲望と、それを達成する手段が直接に結びついて、目に見えやすいからだ。会社国家を統治する欧州人、秘密結社のネットワークを掌握する中国人、地方の村落で実行支配を行う土着の王、それぞれが自身の利益を追求しつつ、相互に依存していた。

しかし拡大路線が一区切りつくと、利益を共有していた者同士でも、主導権争いが避けがたく発生する。会社国家として、より安定した統治をおこなうためには、拡大のための必要悪を切り捨て、統治者がコントロールできる制度を、末端まで行き渡らせる必要がある。「国家の中の国家」である秘密結社を取り締まり、指導者を国外追放する。不透明な地方行政を把握するために、人口統計をとり、それにもとづく徴税制度を整備する。

広大な海域圏と、そこで暮らす人々が、ゆるいネットワークでつながっていた時代から、地図の上に線が引かれ、人口と、そこで生み出される権益が、明示的に数値化される時代への変化である。紙の上に記載するためには、目の前の人、物、出来事を、何らかの形で分類、整理する必要がある。統治者はまた、そのような情報にもとづいて、会社国家の事業を計画的に推進できるようになる。人々は、いつの間にか擬似的な国家に編入され、国民としてあるべき振る舞いを求められるようになる。

海の帝国--アジアをどう考えるか 』 p.94 より

ラッフルズは言語、宗教、慣習も大いに異なり、また「文明の水準」もさまざまな人たちを「便宜上」マレー人と呼んだ。かれにとって「マレー人」と呼ばれた人々が自分たちをマレー人と思っているかどうかなど、どうでもよいことだった。ラッフルズをはじめとする海峡植民地政府のイギリス人行政官はこの精神でここに住む様々な人たちを「便宜上」マレー人、インド人、中国人、ヨーロッパ人などと呼び、そうしたカテゴリーを基礎に住民を登録し、居住地を指定し、民法を制定し、遺産相続事務を執り行い、海峡植民地政府の行政を行った。「わたし」はわたしが何人(なんびと)かなどということを考えたこともなかったかもしれない。しかし、わたしはいちど「マレー人」に分類されると、「マレー人」の居住地に住み、結婚、離婚、遺産相続などにおいて「マレー人」の民法に縛られ、「マレー人」の学校に子供をやらなければならなくなる。本来、およそなんの意味ももたなかった「マレー人」は、こうしてリヴァイアサンの力を媒介としてしだいにわたしにとって切実な意味をもつようになる。そういうことが十九世紀に海峡植民地(さらには英領マラヤ)でもオランダ東インドでもその他の東南アジアの地域でもおこった。

(中略)

p.98

おまえたちは「◯◯人」だ、だからおまえたちの居住地区はあっちだ、といくら言っても、一度ほかのところに住み着いた人たちがそう簡単に移るわけがない。そのとき海峡植民地政府は、移転先の土地を用意し、金銭的保証を与え、それでも埒(らち)があかないとなると、強制力に訴えた。こうしてリヴァイアサンの実力により、ラッフルズの都市計画にもとづいてシンガポールの町にきわめて具体的に「中国人」「マレー人」「アラブ人」「ヨーロッパ人」「ブギス人」などの民族的カテゴリーが空間的に現出した。アブドゥッラーは、おまえは「マレー人」だ、と「白人の友人」に言われたところで、それが実のところどういう意味なのか、おそらくわからなかっただろう。しかし、かれにとっても「マレー人」はまったく空虚なことばではなかった。「マレー人」とはシンガポール川右岸、チャイナ・タウンのさらに西に住む人たちである、あるいは「アラブ人」地区のさらに東に住む人たちである、そういうかたちで意味をもつようになっていた。

アイデンティティの政治

これまで述べてきたことをより一般的にいえば、民族的カテゴリーを土台に社会地図が作成される、それがリヴァイアサンの力によって社会的現実となる、そしてその結果として本来空っぽであった民族的カテゴリーがしだいに切実な意味をもつようになる、ということである。こうしたプロセスの出発点には人口調査があった。リヴァイアサンがみずからの支配下にあるすべての住民を数えあげ、分類するという作業である。

(中略)

その第一は、数の政治である。人口統計において住民は民族、地域(行政単位)、所得水準、学歴、年齢など、さまざまの分類規準によって数えられ分類される。こうして「多数(マジョリティ)」と「少数(マイノリティ)」が明らかとなった。(たとえば、オランダ東インドにおいて「中国人」は総人口の三パーセントを占めるにすぎないということは、人口統計をまってはじめて明らかとなった。)また人口統計における民族別所得統計、民族別教育統計、民族別労働統計などによって、所得、教育、雇用などにおける民族間格差がだれの目にもはっきり見えるようになった。「華僑」問題はこうして生まれた。

第二に、メスティーソ、混血人が消滅した。物理的に消滅したというのではもちろんない。カテゴリーとして消滅した。そしてこれがアイデンティティの政治を生み出した。人口統計の民族的カテゴリーはフィクションとして完全、不可分のまとまりをもっている。かりにマレーシアの人口統計が「マレー人」と「中国人」だけから構成されていたとしよう。その場合、マレーシアの住民はすべてこのいずれかのカテゴリーに分類される。しかし、現実は常にそれよりはるかに複雑である。

地図の上に情報を記すための、便宜的な分類が、将来の地図を計画することによって、現実の存在となり、人々に影響を与える。会社国家の生み出したシステムが、突如として目の前の生活を規定し始める。なんだか、パラレルワールドをみているかのようだ。そして、このもう一つの世界こそが、19世紀から現代にいたるまで、地球上に覇権を拡大した近代国家という仕組みに他ならない。

確かに我々は、地図を見て、統計情報を読むことで、自身の地理的な感覚を拡張することができる。複雑な世界を、整理、分類することで、より大きな意思決定が可能になる。しかしそれが、転写された情報である限り、常に現実世界との不整合は発生しうる。その間に立たされた『わたし』は、常に分断されるリスクにさらされることになる。また、より大きな存在としての国家に、意思決定をゆだねることで、『わたし』が元来もっていた自然に生きる権利は、なんらかの制約を受けることになる。

18世紀以前が、地理的な領土の覇権を競う時代だったのに対し、19世紀にはそれが、植民地主義という会社国家の利益をめぐる競争に変化した。20世紀にわたって、効率的な管理のために進化したシステムは、国家という統治の仕組みを取り込み、自身が描く地図をもとに、人々をその領土に取り込んでいった、という見方は極端すぎるだろうか?

計画されたもうひとつの世界が、現実の生活を規定する状況は、『わたし』にとって深刻な事態である。一方でそれは、システムが顕在化しやすくなるというメリットもある。事実、東南アジアではその後、自覚した『わたし』による自治権の獲得が進展した。しかし、今や自立したシステムとしての国家は、「機構としてそれ独自の記憶と自己保存、自己増殖の衝動」にもとづいて、さらなる進化を遂げている。以下の引用のような、警察国家の片鱗は、今日の日本でも、しばしば見かけるのではないだろうか。

最後に、まったくの個人的かつ楽観的な感覚なのだが、もうひとつの世界を、よりよい現実の暮らしに引き寄せるためのチャンスが、少しずつ高まっているような気がする。それはインターネットという、新しい情報の交易ネットワークが広がったことによって、システムに揺さぶりがかかり、21世紀の初頭において、再び『わたし』の領域が拡大する、揺り戻し現象が起きているからだ。その際にキーとなる秘密が、振り子の出発点、本書で記されている20世紀初頭の近代国家の起源に隠されているような気がするのだが、それについては場を改めて考えてみよう。

海の帝国--アジアをどう考えるか 』 p.118 より

新しい近代的な政治は「原住民」の多くが、いま、ここに、社会的現実としてある「わたし」とは違う「わたし」を想像するようになったときにはじまった。こうした人々が「もしわたしがオランダ人であったならば」「もしわたしがオランダ東インド総督であったならば」と問うているかぎり、そこで問題となるのはオランダ東インドの植民地秩序である。しかし、そうした人々が「もしわたしが県知事であったならば」「もしわたしがスルタンであったならば」と問うようになれば、社会秩序それ自体が問題となる。そのとき「革命」と「新社会の建設」がそれなりに説得力をもったとしても驚くにはあたらないだろう。

もうひとつ、それ以上に重要な理由は、おそらく言語そのものにあった。それはムラユ語に即して言えば、ムラユ語の「わたし」がオランダ語の「わたし」のようには飼い慣らされてない「わたし」、ワイルドな「わたし」だった、とでも言えばよいだろうか。

(中略)

ビルマの初代首相ウ・ヌーの述べたように、近代国家は自動車のようなものであり、自動車がなんの存在論的意味ももたないのと同様、国家はそれ自体としてはなんの存在論的意味ももたない。そういう国家が異物として東南アジア各地に移植され、十九世紀末までには、これが圧倒的な力をもって社会を支配するようになった。ではこれはなにものなのか。これにはどのような意味があるのか。かつてまんだらを支えた東南アジアの言語はその答をもたなかった。これが言語に内在する権威を破壊した。ワイルドな「わたし」の漂流はそうした権威の不在を指示するものだった。

(中略)

英語には警察policeの派生語としてpolicingということばがある。これには一般に「取り締まる」「治安を維持する」などの訳語が与えられているが、意味はもっと広い。ではpolicingの理想はなにか。self-policingだろう。自分で自分を取り締まる、規制する、監視する、つまり、自分のなかに警察官がいてなにかしようとすると、おい、こら、とやる、これが理想である。東インド政府が「牢獄・収容所列島」のトポロジーを基礎にムラユ語の社会地図を作成し、そこに「モスクワ」「共産党」などの「立ち入り禁止」の標識を立てたのは、そういうself-policingを原住民にやらせるためだった。こうして「文明化」のプロジェクトは結局、警察国家をもたらした。

こうしてみれば、「文明化」のプロジェクトには「見る」ということをめぐって一定の論理のあったことがわかるだろう。「われわれ」は「見られている」、それに気付いて「われわれ」は「かれら」を「見る」、しかし、見れば見るほど「われわれ」には「かれら」がなぞとなる。「かれら」がなにを考え、なにを見ているのか、わからなければ、わかるようにすればよい。このとき「文明化」のプロジェクトがはじまった。「かれら」に「われわれ」の「わたし」を教え込む、それが基本戦略だった。

ところがこれが新しい問題を生み出した。近代的な政治が誕生し「土語」における権威の不在を暴露した。ではどうするか。「かれら」が不埒なことを考えないよう「かれら」を「見ている」だけでは不十分である。policingの理想はself-policingにある。「われわれ」が「かれら」を「見ている」ことを「かれら」に思い知らせ、「かれら」が自分で自分を「見る」ようにさせる。こうして「文明化」のプロジェクトは警察国家を論理的帰結とすることになった。

photo
海の帝国--アジアをどう考えるか (中公新書)
白石 隆
中央公論新社 2000-09
評価

by G-Tools , 2008/03/22