『表現の自由』を日常で意識する意味

ふと思い立って、『表現の自由 - Google 検索』と検索してみたところ、wikipediaに続いて、白田法学博士のページが表示され、それを読み、自身の思考地図の一部が、とてもクリアになるのを感じた。憲法という遠大な世界と、『表現する』という日常の行為の間に、確かに道が存在するのを、仰ぎ見ることができる。そして、足下の何気ない街道が、より大きな世界につながっていると確信して、歩き出すことができる。そんな感覚。

情報時代における言論・表現の自由

しばらく前から、よりよく世界を見て、快適に生きるためには、自分のなかのフィルターを意識することが重要だと感じている。インターネットを問わず、世の中のメディアには、ありとあらゆる波長の表現があふれているので、おかしな領域にチューニングをあわせてしまうと、無駄にイライラしたり、不安になったり、情報に悪酔いしてしまうことがある。そんな中で、読むべき文、見るべきもの、聞くべき声に、自分自身をガイドしてくれるのが、意識のフィルターではないだろうか。

そこで、何をフィルターとして意識するかが重要になってくるわけだが、理念としての『表現の自由』は、実はとても現実的な指針を与えてくれるのではないか。そして単に情報を受け取るだけでなく、自由を意識して表現すること、その行為自体が、よりよい日常をつくりあげるのではないだろうか。

情報時代における言論・表現の自由』 より

一部の人々にのみ開かれていた 「善の追求、真の追究、美の追求」 をあらゆる市民が参加する共同的な作業の中で行い、 可能な限り多様な観点からそれらの価値の究極的な実現を図るというのが近代的自由 主義国家の理念的な形であるといえるでしょう。このためには、 より多くの人々が対話に参加し、たくさんの見解や意見が表明され、 それらが言論の場において公平に判断され選択されることが必要になります。逆に、 人々の対話への参加を困難にしたり、見解や意見の表明を阻害したり、 判断に歪みをもたらすような種類の言論は、それらがたとえ言論・ 表現という形を取っていたとしても「ノイズ」 にしかなりえないということになります。

もちろん、どの発言が真・善・美の追求に向けられたものか、 あるいは単なるノイズに過ぎないのかを判断することも、 また一種の価値判断になりますので、あらかじめどのような言論を行うべきか、 という枠を作ることはできません。しかし、 前節で説明してきた憲法の保護を受けられない種類の言論や、 あるいは弱い保護しか受けられない種類の言論を再検討してみれば、 それらが一般的に真・善・美への対話を妨害する種類ものであることがわかります。

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